俳人十湖讃歌 第222回 鳴門の旧知(5)

 今回の旅は四国へ渡り、旧知の富田久三郎の案内で香川を巡る。
 どんな旅になるのか、十湖には旧交を温めることがなにより楽しみだったのである。
 岡山から四国へ渡り、真っ先に行ったのは琴平の金比羅宮である。

  八乙女やいよいよ神の風光る

 途中鹿島や壇ノ浦を巡り、発句にも熱が入る。

    老いの眼に霞む屋島壇ノ浦
 
 続いて高松栗林公園に遊び高松の俳誌の発行元を見学した。

  春や春その高松の鶴の声

 徳島に入ったときから久三郎が案内し、その夜は富田宅に泊まった。
 十湖は酒が進み、余興に乗じて句を揮毫したりした。久しぶりの再会で話が弾み、少々脱線した様子ではなかったか。

       青葉若葉匂ふや阿波の大鳴門

 翌日、阿波の鳴門を見物し、四国八十八ヶ所第一番札所霊山寺を参拝する。

  春風や渦をよけよけ進む船
  朝晴や春を耕す塩熊手
  引き立や鳴門若布の酒の味
  
 続いて同町内にある富田のつくった牧舎を案内される。
 ここではドイツ式牧舎と第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜の指導を得て行なう酪農を見た。
 この時の写真が今も残っている。
 十湖を囲んでの記念撮影で、十人のドイツ人に囲まれて居心地が悪そうな顔をしている。そういえばここでの発句が残っていないのは見るものすべてに心を奪われその余裕がなかったのかもしれない。
 それに引き換え久三郎は白髪で口髭を伸ばし、着物の袖に両手を入れて腕組みをしている姿は、流石に大物の貫禄を見せている。
 淡路からの帰路は再び伊勢路へ戻る道を辿る。伊賀から大和月ヶ瀬に入り、梅の香にホッとしたのか発句は梅づくし、三週間の伊勢から淡路への旅は終わった。
 帰庵しての一句は安堵の様子が窺える、まだ春浅き大蕪庵であった。
      
   訪ふ人に春のあふるる庵かな

                              (完)

Cyusaburo

(写真:「富田製薬百年のあゆみ」より)

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2025年1月20日 (月)

十湖の備忘録№1「柳田國男の長い織場の灯り」

 これからは十湖にまつわる郷土の歴史的出来事・新たな発見など「手控え帳」まがいで連載できれば開設者冥利につきます。
 第1回目は十湖の郷土が時代の学者によって、いかに受け取られていたかを当ブログでご案内いたします。

 筆者がある新年会の席で「かつて笠井町を通り抜けた有名人がいたが知っているか」と尋ねられたことがあった。
 思い当たる節もなかったので誰の事かと聞き返すと、「民俗学者の柳田国男氏がこの町を通ったことが何かに書いてあったらしい。」というのである。
 後日、図書館で柳田国男氏の書籍を探してみると著作集30数巻のうち、1っか所だけ「笠井」の町名を発見した。
「笠井」は松島十湖にまつわる地である。
「灯台下暗し」という格言があるが、意外や住んでいる住民には気が付かないことがたまたま通りかかった旅人によって、うまい表現で記載されていた。

「浜松の松は既に残り少なで、その代りに出来たのは織物の工場である。一機に一燈の電燈がついて居る。それが鉄道を越えて北は笠井の付近、更に二俣の対岸近くまで、只の農家でも二棟三棟の、長い織場を建てた屋敷が稀では無い。北を向けて明り採りに、屋根の片側を硝子にして居る。何とも無い山の上の農家に於て、静かな夕方に見て居ると、一時にぱつと美しい光が、広い平野を彩るのを見るやうに、もう世の中がなったのである。」
出典:秋風帖(大正9年11月、東京朝日新聞)より「野の火、山の雲」著者 柳田国男

 大正9年秋、柳田国男氏は島田の祭典を見て焼津方面から浜松に入った。
 天竜川を遡りながら笠井を通過し二俣へ向かっていた時に見た光景を文にしたものである。
 この頃、遠州地域は最も織物が盛んで織屋は二俣へと続いていた。
 因みに笠井の町では製造業者49、販売業者11、染色業者11に代表されるように大正末期の浜松地域の全工場のうち90%近くが繊維工場で占められていた。遠州織物の基礎ができあがったころであった。

 

Syokufukojyo_20241019144501

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俳人十湖讃歌 第221回 鳴門の旧知(4)

 鳥羽で遊んだ後は岡山へ出て四国に渡り、かつての報徳の同士と会う予定である。
 市野村出身の富田久三郎である。十湖より三つ下だからこのとき六十八歳になっている。
 明治十八年当時、十湖は引佐・麁玉郡長として公務に専念し、一方で農政改革のために西遠農学社を設立した。
 その活動をともにしていたのが、市野村出身の富田久三郎であった。
 富田久三郎は一八五二 年に遠州長上郡市野村(現、浜松市東区市野町)で生まれた。生家は姫街道の要衝で代々錺屋(かざりや)を営み、祖父保五郎は火術家(火薬に精通した技術者に対する江戸時代の呼称)として近隣で有名であった。
 久三郎はこの祖父の薫陶を受けて青年期より舎密(化学)を学んだ。
 二十五歳の時に当時高価な薬品であった炭酸マグネシュウムを苦汁から製造する方法を確立し、地元市野や浜名湖周辺で製薬業を拡大していった。
 そんな折、引佐麁玉郡長であった十湖から農家の副業についての相談があり、それに応えたところから久三郎との親交は深まっていった。
 青年期から壮年期にかけては、郷里遠州で金原明善と十湖の思想や行動に大いに感化されている。後年、久三郎がドイツ兵俘虜から技術を学び「 工農一体化」 を推進しようとしたのは、この二人の先輩の影響によるところが大きい。
 やがて、久三郎はさらなる事業拡大のために苦汁の大量供給地に進出すべきと考えるようになり、瀬戸内十州塩田の中から適地として撫養塩田を選び、遠州から阿波への移転を決意した。
 一八九二年久三郎四十歳の時に、風光明媚な小鳴門海峡沿いの、板野郡瀬戸村明神に富田製薬工場を開設した。

Koba39a(写真:「富田製薬百年のあゆみ」より)

 

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2025年1月17日 (金)

笠井観音だるま市は大にぎわい

 今年からこれまでの1月10日開催から第2日曜日の12日に変更したにもかかわらず、多くの善男善女で賑わいました。
 この日は新成人の式典終了後に参拝にきた方で境内が一段と華やかな雰囲気に包まれました。
 笠井の歴史を振り返ったとき、大正の初めころまで遠州織物産地として景気が沸騰していき、十湖ら俳諧師にとっては遠陽市場の開設で文化の交流にもつながり、笠井観音は商人にとっては景気をもたらす恵比寿様だったようです。   
        
      鳴らす手が市の景気よ朝夷子

  松島十湖はこんな俳句を詠んでいました。

7d2


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2025年1月12日 (日)

俳人十湖讃歌 第220回 鳴門の旧知(3)

 十湖は和尚の顔に眼を向けると、和尚は笑みを浮かべながら
「俳禅一味とは心に響く四文字ですな。後世に残したいことばですがのう」
「話は変わるが、かつて宮本武蔵は自らの剣の道を「剣禅一如」といっていたそうな。わしの俳句の道も同じようなものじゃ」
 十湖はそういって高笑いをした。
 和尚には俳禅一味の十湖の思いが伝わったらしい。
「わしはすでに門人知友と謀り、俳禅一味の碑石を浜名郡北浜村貴布祢に建てた。もって不朽に伝えようとな」
 得意そうな満面で腕組した手を解き、庭に向かって両手を広げ大あくびをしたのだった。
「雲林居士は地下にあって翁の古希を祝い、俳句の道一筋の宗匠に破顔一笑していることでしょうな」
 笑う和尚の声が境内の蝉しぐれにかき消されていた。十湖の心は既に伊勢路の旅に跳んでいた。

 大正八年三月、七十一歳になる十湖は再び伊勢路を行脚することになった。
 伊勢の門下生の招きで来る七日から出発する。同行は門人奇峰と常春である。
 いつものことであるが旅立ちの一句 
  
     神風に向こうて春の門出かな

 伊勢へ着けば何より先に伊勢神宮を参拝する。
 その後は各地で句会を開催し、鳥羽へ出てゆっくりする予定だ。
 だが今回の旅は少し十湖には秘めているものがある。旅立つ前に和尚には話さなかった、もう一か所の立ち寄り先のことである。

Haizenitimi

                            (十湖書)                    

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