十湖外伝 雨後蝉(9)歌人河合象子の生涯

 数日後、妻のいしが邸に出入りしている下女のふと漏らした言葉を祖母に訊ねてみたことがあった。
「憑りつかれたとき世間では法華経というものを一日に千部誦なえると必ず平癒するというのを聞いたのですが、本当に治るものか和尚さんに聞いたらいかがでしょうか」
 いしは祖母と二人で寺を訪ね、藁をも掴む思いでその旨を話してみた。
「これでやってみなされ。一か八か功徳があることを祈ります」
 神妙な顔つきで和尚は法華経の教本を差し出した。
 翌年の春再び城内の桜が散り始めていた。
 熊之進は、最近では田鶴にも変化があり作った歌を詠んで聞かせてくれると喜んでいた。
 田鶴の日課は朝から教本を唱え五百回済んだら昼を摂る。
 ある日祖母が田鶴の食事の済んだころを見計らい
「田鶴や、これ以上やっても同じこと。午後は声を大きく絞り出して残り五百回を終えたら和尚様のところへ行ってみましょう」
 祖母は田鶴に向かって優しく誘った。
「お婆様わかりました。一緒に連れて行ってください。あと五百回は大きな声が出るんです」
 突然、田鶴の口から意思のある活舌な返事が返ってきた。
 給仕をしていたいしの手が止まり祖母と顔を見合わせて唖然としていた。
 千部を唱え終えたころには、皆清々しい心持となり、しゃれこうべの憑き物が去ったと喜んだ。

Akinoike

 数日後、妻のいしが邸に出入りしている下女のふと漏らした言葉を祖母に訊ねてみたことがあった。
「憑りつかれたとき世間では法華経というものを一日に千部誦なえると必ず平癒するというのを聞いたのですが、本当に治るものか和尚さんに聞いたらいかがでしょうか」
 いしは祖母と二人で寺を訪ね、藁をも掴む思いでその旨を話してみた。
「これでやってみなされ。一か八か功徳があることを祈ります」
 神妙な顔つきで和尚は法華経の教本を差し出した。
 翌年の春再び城内の桜が散り始めていた。
 熊之進は、最近では田鶴にも変化があり作った歌を詠んで聞かせてくれると喜んでいた。
 田鶴の日課は朝から教本を唱え五百回済んだら昼を摂る。
 ある日祖母が田鶴の食事の済んだころを見計らい
「田鶴や、これ以上やっても同じこと。午後は声を大きく絞り出して残り五百回を終えたら和尚様のところへ行ってみましょう」
 祖母は田鶴に向かって優しく誘った。
「お婆様わかりました。一緒に連れて行ってください。あと五百回は大きな声が出るんです」
 突然、田鶴の口から意思のある活舌な返事が返ってきた。
 給仕をしていたいしの手が止まり祖母と顔を見合わせて唖然としていた。
 千部を唱え終えたころには、皆清々しい心持となり、しゃれこうべの憑き物が去ったと喜んだ。

Akinoike

 

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2026年4月17日 (金)

十湖外伝 雨後蝉(12)歌人河合象子の生涯

 気賀での生活は田鶴も悲しみに暮れている暇などなく母の手伝いをして過ごしていた。
 といっても女の身なので家業の表には立たず裏方が主な仕事である。
 膳部などを運ぶ手伝いをするときには奉公人に交じって目立たないように気を使っていた。
 武家育ちなので言葉使いや立ち振る舞いにも隙がなく、宿泊する各藩の武家たちからは好感が持たれ、田鶴は本陣の娘として生き生きと働いていた。
 だが、心穏やかでないのは与太夫である。
 年頃のお嬢様をいつまでも仕事をさせておくわけにはいかない。
 実家へ戻って早一年が経とうとしたころ、いしが父同様突然の病に襲われ田鶴は母を失うことになった。
 二十六歳になる田鶴にとっては悲しい別れだが、本陣中村家をめぐる人々の温かい援助のおかげで、これも自分の運命と受け入れ、気丈に振る舞い日々の仕事に精を出していた。
 ある時、与太夫と道を挟んだ向いの武家屋敷河合家当主が本陣奥の間で碁を打ちながら何やら話し込んでいる。
「与太夫殿いかがだろう。そろそろ田鶴様を嫁に出しては」
「河合様、そうはいっても齢はとうにその時期を過ぎておりますので、なかなか嫁ぎ先が見つかりません」
「それは口実じゃ。本当は出したきゃないだろうが」
「はあ、わかりますか。田鶴は気立てがいいし、それに頭がいい。こんな娘を手放す親がいますか」
「それは理解しておる。しかし田鶴さまの行く末を思えば今決断するしかないだろう」
「おっしゃることはよくわかりますが、それに話が来ないことにはどうにもなりません」

Yado01

 

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2026年4月10日 (金)

十湖外伝 雨後蝉(11)歌人河合象子の生涯

 最期の藩主松平信古は、動乱期の幕政の一翼を担い朝廷と幕藩体制を何とか維持しようとする幕府のはざまにあって、悩み多い日々を大坂で過ごしていた。
 いずれ熊之進には大役が来るのではと日々神経を研ぎ澄ましていた矢先、体調に異変を感じた。
 登城する日なのにいつまでたっても起きてこないのを不審に思ったいしは、寝所で既にこと切れている熊之進を発見した。
 二十五歳になった田鶴にとって、あまりにも突然の悲しい別れであった。
 安政六年(一八五九)熊之進の弔いを済ますと、祖母は山中家の親戚筋が看ることになり、田鶴らはいしの実家である気賀の里へ戻ることを余儀なくされた。 
 浜名湖北岸に位置する気賀は、田鶴には初めて訪れる地である。吉田を出て姫街道を湖岸沿いに気賀の町へと辿り着いた。
「お母さま、町は商人で活気がありますね」
 関所を無事通過し気賀の宿の中心にやってきた田鶴は、興奮気味に母に云った。
「そうですか。母の生まれ故郷は田鶴が初めて見る光景ですね」
 母の実家の本陣は、幕府が気賀に設置した本坂通り(通称姫街道)の宿場の中心にある。
 町の南端には気賀の関所がおかれ、地頭の気賀近藤氏が関所を管理している。
 東海道と比べればかなり遠回りであるため賑やかさも華やかさもない。しかも宿場も少ない。旅人の往来も格段に少ないし、関所を通るものは地元の人が多く交流が主になる。ゆえに関所の取り調べも緩やかだと言われていた。
 もともと本陣は大将が陣を構えるところであり、その宿泊場所のことでもある。
 だが太平の世になって戦乱がなくなれば武士の街道の行き来のための宿泊施設でしかない。
 本陣の客は大体が常泊としているので、なじみの顔ぶれである。
 だから客の好みを知っており、その時の献立も控えているので次に来るときは至って気持ちよく泊まることができた。
 田鶴親子が今後起臥する実家は遠州引佐気賀の本陣であり、主は代々与太夫を名乗って地元の協力を得て宿を運営している。

Himemap02

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2026年4月 3日 (金)

十湖外伝 雨後蝉(10)歌人河合象子の生涯

 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ艦隊の浦賀への来航は、鎖国体制下の我が国に大きな衝撃を与えた。
 吉田藩では異国船退散を祈願するため領地内の惣代らを伊勢神宮に派遣し、足軽・中間を江戸に派遣するなど、これまでにはない騒々しい動きがあった。
 それから五年後の安政五年(一八五八)幕府は通商条約を結び、神奈川・長崎・箱館などを開港した。
 井伊直弼大老による安政の大獄などの政治的混乱、外国貿易による経済的混乱のなかで、吉田藩は田原藩との境、百々(どうどう)村中郷(渥美郡田原町)に防塁を築いて大砲をすえ、外国船の襲来に備えた。
 砲術指南役だった父熊之進もこの頃は忙しい毎日が続く。
 しかし、田鶴が元気になり家の中が明るくなったことで父も城中での仕事に張り合いができた。
 それに田鶴の将来のために武士の娘としての所作、教養を体得させようといしとともに田鶴を教育した。
 二人は田鶴が生まれつき勉学に対し理解と呑み込みが早く、向上心が上がっていくのを快く思った。
 そのことは和歌つくりにも反映し二十歳の頃には大人顔負けの和歌を詠んでいた。
 熊之進は筋がいいと娘の成長ぶりを城中でも自慢していたのである。
 いしは年頃となった田鶴の嫁ぎ先のことで頭が痛いが、田鶴が常に朗らかで家事一切を手伝ってくれ自分も助かっているためか、なかなか本人に言い出せないでいる。

Yoshida_gyosho_tokaido
(当時の吉田藩を描いた画)

 

 

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2026年3月20日 (金)

十湖外伝 雨後蝉(8)歌人河合象子の生涯

 この日以来、田鶴は高熱が下がっても臥せてばかり、周囲を気にして虚ろな目で会話もなく、食事の量も減り痩せ細っていった。
 既に二年の歳月を費やしていた。
 熊之進はその姿を見るに忍びなく、何か尽くす手立てはないものかと思案の末、田鶴に和歌を教え込むことを試みた。
 熊之進は城内では和歌を嗜むことで知られ、号を五百杵という。
 歌を作ることは心に集中力をつけることになり、歌の定型を会得すれば自信にもつながる。
 田鶴が病から抜け出すきっかけになろうと淡い期待を歌作りに求めた。
 和歌のつくり方を教えると、最初は無表情だった田鶴に変化が現れ、熊之進の教えは伝わっていたかにみえた。
 そのうち書くことを勧めると、やがて枕元に詠んだ歌が書いて置いてあった。
 身の回りの出来事を一語一語嚙みしめ組み立てて和歌になっている。
 ある日熊之進は田鶴に
「号をあげよう。お前はこれから和歌の小牧だ」
 と微笑しながら言い放し、和歌を作った時には褒めた。 
 弘化三年(一八四六)祖母九十歳の賀に田鶴は和歌二首を作る。
 それを見た熊之進は書かれた半紙を手にとって
「一に曰く、ここのへの坂路やすやす行き行きて百重の山も近き君かな」
と朗々と詠みあげてみる。
「実によい歌だ。小牧は素質があるぞ」
 田鶴を前にして褒めたたえた。
 だが彼女の表情は変わらず、顔色も冴えなかった。
 熊之進は不憫な奴だと悲しみに堪えた。
Wakasyu_20210604155401

(父、熊之進の和歌集)

 

 

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