俳人十湖讃歌 第100回 昆虫翁(9)

 十湖が引佐の田んぼを巡回していた時だ。
「今年はウンカの湧きが多いので、田植えは延期をして駆除をしようと思うが協力してくれ」
「そりゃあいくら十湖様の頼みでもできない相談だ。害虫はお天道様のことだから、人間が下手に手を出すとたたりがあるだ」
 そうかと思うと、田んぼの中に神社の御札が挿さっているところがある。ここでも十湖が駆除の話をすると
「わしのところは秋葉山の魔よけのお札を挿してあるので大丈夫だ」
 迷信と神様の御利益がまかり通っている地域もあった。
 来る日も十湖は時間があれば地域内を東奔西走し、名和昆虫研究所で教えられた駆除と予防の方法を説いて廻った。
 渥美郡の県境には知波田の岡田とともに各戸を訪ね、あるときは集会を企画した。
 岡田の説明は名和研究所の特派員とあってわかりやすく、説得は十湖がした。
 その結果、農学社が中心となって周辺町村を巻き込み、一斉の駆除に動き始めた。
 郡長も十湖らの行動に賛同し、いよいよ郡長の指示で田植えを延期し、捕虫器その他万端の用意を整えて浜名郡全域に実行することができた。
 捕獲したウンカは三十八俵五分(四斗二升入として計算)にものぼった。
 一方、郡役所ははからずも十湖らの活躍でウンカ駆除が達せられたことを教訓に、今後は昆虫研究会を発足させたいと云い出した。まさに朗報である。
 同年七月名和昆虫研究所長が県内志太郡へ講話のため出張してくることを知り、帰途本郡での二日間の講話を本郡農会が依頼した。
 同時に今後の害虫共同駆除及び害虫の調査などのため昆虫研究会を起こすに至った。
 七月十七日、十八日の両日郡役所内に於いて発会式を予定した。

Hoami

 

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2023年5月26日 (金)

俳人十湖讃歌 第99回 昆虫翁(8) 

 田植えを前にして十湖は、名和昆虫研究所で聞いた話を農学社内で検討し対策に当たった。
 十湖は今では三遠農学社の顧問という立場だが、浜名郡の三遠農学社の代表を集めることは容易である。
 郡長就任中の頃は農業生産を上げる為には、農業者それぞれの研鑽と学習が必要だと個々の農業者に図ってきた。
 具体的には農業改革に繋がるいわば尊徳の報徳精神の実践と技術改良こそが皆がまとまる力になると、各地を回り農学者の組織化に務めてきた。
 本来なら自らが社長に就任して推進すればいいのだが、郡長という要職を兼ねるとそれはできない。
 自分の代わりに報徳社の同志である松島授三郎を社長に推薦した。
 だが、授三郎は1年前に亡くなり、組織はその意志を継いで現在まで脈々と活動をしてきている。 
 十湖は代表者が集まる機会を窺っていた。
 そのときこそ農業者の組織の力が試される。
 それまでには自らの考えをまとめておく必要がある。郡長時代の正義が想い起こされた。
 数日後その機会はやって来た。
 代表者が集まった場で、十湖は名和昆虫研究所で指示された十か条の駆除方針を熱く説明した。
 十か条は次のようなものだった。
一、害虫駆除を理想的に行うには第一昆虫とは何か、おおよそを知るべし。
二、害虫と益虫との区別を明らかにし、害虫を駆除すると同時に益虫を保護すべし。
三、害虫の発育の仕組みとその習性を詳しく知り、初めて都合よく駆除実行し得る。
四、単独で駆除することは効果少なく、これに反し共同駆除すれば効果大なり。
五、害虫駆除は一人前の男子のつとめとするよりも婦女子のつとめとすべし。
六、害虫駆除をするには簡易で有効な機材と確実で値段の安い薬品を選べ。
七、誘蛾灯は用いてもよいが、悪いこともある。注油法も同じだ。
八、天然駆除を第一として人工的な駆除は避けるべし。
九、害虫駆除は、いわば枝葉末節だ。平素から予防に注意すべし。
十、予防の一匁は駆除の一貫目匁にまさる。
 だがこの十ヶ条は、そう簡単に実現できるわけではなかった。

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2023年5月19日 (金)

俳人十湖讃歌 第98回 昆虫翁(7) 

 運のいいことに岡田は庭で鍬を洗っていた。
「岡田さん、今日は珍しい方をご案内しました」
 山本は妙に緊張して岡田に十湖を紹介した。
 岡田は頭に巻いた手拭いを取りながら、その日焼けした赤ら顔の中に白い歯を見せた。
 岡田は十湖の問いかけに、被害が少なかった理由を名和昆虫研究所から教わったとおりに実践した結果だと説明した。
「このやり方を地域に広げようとしたのですが、残念ながら大勢は否定的でした」
 話の最後に岡田は申し訳なさそうに付け加えた。
「なぜ地域は否定的なのか。相変わらず昔からの慣例による駆除法に従ったからではないのか」
「そのとおりです。虫送りといって神仏に祈り、お札的駆除と祖先伝来の駆除法に依拠しているのが農民一般の有様だったのです。仕方なく自らの田んぼだけでも実践してみようと思い立ったのです」
「なかなか勇気が要ることを成し遂げたな」
「おかげさまでごらんのとおりの結果です」
「よくわかった。つまり一人が駆除を実践しても自分だけしかできないから、根本的な解決法にはならないということだな」
 十湖は青沼郡長から示された「昆虫世界」のことを思い出し自分に問い、答えを導き出しもっと駆除方法の詳細を知りたいと思っていた。
 
 翌年五月、十湖は再び引佐の地を踏み稲田の比較をしてみた。
 稲田は例年どおりの成長を果たしていた。
 どちらも同じ程度の生育状況であるもののウンカの被害はこれからというところか。
 十湖は農学社から三人を選び、名和昆虫研究所へ派遣した。
 その結果は十湖を満足させるには十分なものだった。
「本田の害虫の親虫が苗代田の内に胚胎しているので、苗代田において一斉に駆除が必要だ」
 ということが判った。
 しかし、この研究に従事するものは少なく、ただ害虫の何者たるを考えずして傍観するばかりで、作物の被害は増える一方だった。 
 昨年は全国いたるところでウンカの害を被り、浜名郡も非常に繁殖してその被害額は百十六万円余の多さに上がり、農民は疲弊し外国米の輸入は増大するばかりだった。
 今年のウンカの発生は、昨年同様全国規模であり、自分たちの村だけの問題ではない。
 周辺地域が一斉に駆除対応しなければ解決しないということは明白だった。

 

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2023年5月12日 (金)

俳人十湖讃歌 第97回 昆虫翁(6) 

「着きましたよ。浜名郡知波田の浜に。あれちょっと話が違いませんか、この景色は」
「おう。これは見事な黄金の稲穂の群生だ。気賀沿いの岸の田んぼとは天国と地獄の違いだ」
 十湖は着岸を命じ、あわてて浜へ飛び降りた。
「太助ここで待っておれ。わしの知り合いがこの近くに住むので行ってくる」
 浜を駆け上がり、目指す農学社の社員の屋敷に向かった。
 その途中、田畦に腰を下ろし休んでいる十湖と同い年くらいの農夫が見えた。
「久しぶりだな。山本十四郎さん」
「吉平郡長殿お久しぶりです。元気そうで何よりです」
「今は郡長ではないので気を使わずともよい。俳諧師十湖だ。今日は各地の稲穂の様子を視察しておる。良かったら話を聞かしてもらえないか」
「そんな恐れ多い。ともかく十湖様と呼ばして頂きましょう」
「それでよい。実は気賀から舟を出して田の様子を見てきたのだが、浜名郡内はウンカで全滅しておる。ところがここはどうだ。いつもと代わらぬ実りの秋だ。いったい知波田だけは被害がなかったのか」
 十湖は思いのたけを山本に話した。
 山本はこの地域の篤志家で農漁業者の一人である。
 なかなかの勉強家であり、十湖が舌を巻くほどだ。
「実っているのはここだけです。少し外れると浜名郡と同じ、被害は甚大です」
「なぜだ。秘策でもあったのか」
「さらに西方の渥美郡はここと同じく見事なものです。知波田には郡農会員の岡田忠男がおり、村の被害を極力抑えようと努力していただいた結果がこれです。それ以上に隣郡の渥美郡は被害がありません」
「なるほど岡田忠男といったか。やはりそうか。渥美郡は害虫被害があっても、二割以上の増収を見るに至ったと、風の便りで聞いていたが」
「岡田は名和昆虫研究所の通信員でして、全国の情報を常に把握しているようです。そのことで害虫駆除の方法などを得た成果だったのではないかと思います。詳しくは本人に聞いてもらうのが一番です。家は正面の屋敷です。今日いるかどうかはわかりませんが」
「ぜひ本人に会って話が聞きたい。間に入ってくれ」
「いいですとも」
 十湖の熱心な申し出に山本は、岡田邸へ十湖を案内した。

Hama11
(現在の奥浜名湖)

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2023年5月 5日 (金)

俳人十湖讃歌 第96回 昆虫翁(5) 

 浜名郡は静岡県の西部に位置し、中央に浜名湖、西は愛知県渥美郡に接し、気候温暖にして実に昆虫の生息には都合のよいところだという。
 もはや今年は害虫被害で万事休すであった。
 例年なら稲穂が垂れ下がり、葉が黄金色をしている田がどこでも望めた。
 十湖はここで怯んでは来年に繋がらない。
 まず今年の被害状況を自分のところだけでなく、県境まで足を運んで確かめてみようと立ち上がった。
 気賀の飯屋の太助に助太刀を頼んだ。十湖にとっては店主の親父の代からの馴染みで、気兼ねがいらない。
「太助、舟を出してくれ。目的地は県境の知波田まで岸沿いを行ってくれ」
 太助は十湖の頼みにも気安く応じ櫓を漕ぎ始めた。
 奥浜名湖の波は穏やかで、舟は滑るように進んでいく。
「いつもならこの時期は、どこの田んぼも黄金の稲穂が靡いているはずなのだが、そんな様子は見当たらない。とても俳句の詠める情景ではないな」
 十湖は舟縁に頬杖を突きながら、迫り来る岸の田んぼの様子をじっと見つめていた。
「そうですか。この景色では宗匠でも句は詠めませんか」
「風雅風流は自分の目で感じて心で詠むんじゃ。この場は景が悪すぎる」
「それじゃ舞阪の弁天島はいかがでしょう。最近海水浴を始めたとか評判ですよ」

Benten01
(現在の弁天島海水浴場付近)

「お前の耳にも届いたか。わしは行ってきたぞ、その海水浴場に」
「十湖様はもう五十になるでしょうが。そんな年で海水浴とは隅に置けんなあ」
「舞阪の小松島はまさに東海無二の絶景だ。しかも舟の煙は松に沿って龍と化し、車の煙は白雲と合して峰をつくっている。実に仙境というに相応しかった」
「ということは当然句も沢山詠めたということですね」
「もちろんだ。

   涼しさや海と湖とをまえうしろ

と吟じてみた。よかった。それに引き換えこのあたりの景色はどうだ。稲穂の光どころか枯れ穂ばかりが靡いている」

Benten02
(弁天神社境内にある十湖の句の一部)

 

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