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2011年12月29日 (木)

細江町東林寺「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」

 奥浜名湖を見下ろす引佐町気賀の細江神社の隣に東林寺がある。山門をくぐると眼前に本堂があり、きれいに整備されていて気持ちがよい境内である。その脇に句碑が建立されていた。句碑の揮毫は遠州の誇る俳人松島十湖の書体とは違うが石の形に似せ句が刻まれていた。
「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」
句碑を読むと本来五七五で並ぶ句が八四五となっている。詠み方によっては意味するところが変わってしまうがこの場合は後者の並びが理解しやすい。
寺のホームページでも次のとおり、紹介されていた。
「後の世の 闇は照るまじ 鵜のかがり」(鵜篝)発句集(明治17年)
、長良川船遊の句だそうです。明治19年に建てられました。(高さ85、幅65センチ)この時代には、都田川でも鵜飼が行われており、十湖先生も良くお立ち寄りになったことから、この石に刻まれた句は、うちのお寺から都田川を臨んだものとも思われます。(先代文雅のひとり言)」Torinji03_2
 長良川で詠んだ句だと最初紹介されていたが、当時の十湖にとってそんな余裕があったのか疑問だ。発句集によれば句は明治17年に詠まれており、寺への建立は明治19年と記録されている。どこにも長良川で詠んだとは記載されていない
 明治14年7月28日静岡にて県知事も出席しての十湖の送別会が行われ、30日には妻佐乃と次男藤吉を連れて引佐郡気賀村に転居した。引佐・麁玉郡長として赴任してきたのである。
まさにこの夏、気賀の地に足を踏み入れた松島吉平郡長の眼に映った都田川の鵜飼の景色は、自らの人生と重ねて感慨深い一句となったのだろう。
「流るるは浮世のさまの鵜舟かな」
明治14年、明治17年には当時の俳句会報等にこの句が掲載されている。
 引佐・麁玉郡長として静岡から転居し中善地から引っ越してからは行政の長として多忙な毎日を送っており、活躍ぶりはすこぶるめざましい。やっと落ち着いた明治17年8月2日の夏休暇には親しき人を招き、夜は細江に舟を浮かべ観月会を催している。
東林寺の住職ともさまざまな話しをしていたことだろう。役場の上は寺だったのだから
「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」
このころにでも詠んだのかもしれない。
ほかに明治32年には「長良川舟遊び」と題し
「人と鳥おなじ心の鵜飼かな」
とあり、この句こそ長良川の舟遊びの結果できた句ではないだろうか。
鵜飼といえば、今では長良川の鵜飼が観光として有名だが、夏の夜、かがり火を焚いた船上で、鵜を操り、鮎を獲る様子は、ここだけに残された日本の古典的な漁法で伝統と格式があり、見る人を幽玄の世界へ誘い込む。
しかし、当時にあっては、鮎漁での鵜飼は決して珍しいものではなかったろう。全国にその漁の様子が写真でも残っている。この気賀の川でも夜の鵜飼があったものと推測される。
前述の寺の住職の言葉にもあるように、あながち間違いではなかろう。
夏の気賀町内を流れる都田川の夕景は、かがり火の明かりでひときは明るく、十湖にとって心が和んだことだろう。住職との会話も弾み、当時の政治情勢を憂い、ついに口にしてしまった。
浜松の郷土研究家西原勲氏の執筆「西遠の句碑」によれば
「河口付近に鵜飼のかがり火が点滅しだす。(十湖は)それを眺めながら鵜飼のかがり火程度では後の世を照らし出すことはできない。和尚、やはり修行を積んだあなたの力、御仏の教えをもってしなければと呼びかけたものである。」と。
なかなか奥が深い句であるが、現在の世の動きから察するに、かがり火程度であっても闇の先はぼんやりと見えるはず。やがてその闇は多くのかがり火によってさらに明るく後の世を照らすのではないだろうか。引佐にあってその先駆的役割を以後十湖が務めた。
明治19年1月鈴木雲泉らの発起で東林寺内にこの句碑を建立した。同年夏、十湖の郡長としての実績が県に認められ、郡長を辞任する。以後在職しなくても郡長並みの待遇を保証された。事蹟は枚挙にいとまなく、快刀乱麻の敏腕は一頭地を抜いて郡民に崇敬されたという。Hosoekuhi

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