« 県議会初登場!吉平祝句披露 | トップページ | 遠州画人展開催される »

2012年2月24日 (金)

春風もふき渡るなり橋新た・・・豊田橋を詠む  

 昨年の台風15号の豪雨の影響で磐田市池田の天竜川河川敷に、明治期に架けられた木製橋「池田橋」とされる橋脚の一部が地上に現れた。直径約20センチの木柱が30本以上並んでいたと報道にあった。池田橋は1883(明治16年)〜1933年まで幅2・7メートル、全長約780メートルで、現在の磐田市池田と浜松市東区中野町を結んでいた。対岸で栄えた笠井の織物市などへのルートとして庶民に利用された橋であった。
 つづいて浜松市立豊西小の児童が、浜松市側で「豊田橋」(1883〜1889年)の橋脚とみられる丸太3本を発見した。この明治期の橋脚発見に、私もこの事実を確認しようと文化財の説明会に参加して現場に立ってみた。思い返せば自分の子供のころにはよく見た光景であった。いずれの橋も明治22年の洪水により流失したと郷土史では伝えている。
 さて本題に戻りこの句であるが、実は現代に遺跡として甦った先の木橋「豊田橋」の完成を祝って十湖が詠んだものなのだ。
 遡って明治5年、対岸へ行くにはさらに南下して池田の渡しを利用するしかなかった時代である。もっと近くで渡してもらえぬかと、他でもない若き日の十湖(当時は松島吉平24才)が浜松県へ何度も足を運び願い出た。その回数や40回にも及ぶ。その労あってかやっとの思いで天竜川の対岸匂坂村への渡船が許可され実現した。
 それから10年後、既に渡船の時代を過ぎ、下流に架かった天竜川橋を見るにつけ、橋の必要性を感じていた。明治15年9月14日十湖(35歳)が発起人となり、天竜川両岸の有識者と連携し架橋の運動を展開したところ、翌16年2月18日早いもので資本金も集まり完成に至ったのだった。Toyodahasi
 橋は長さ1470m幅3.6m、豊田郡末島村(現在の豊西町)川岸から対岸の豊田郡匂坂村(現匂坂中)に架けられた。有料の橋で「豊田橋」と名づけられた。当時の橋つくりの工法は人力で川の中に杭を打っていくもので1本の杭を打つのに綱を引く綱子衆30人から40人が関わった。今に残る天竜側の歌に「ザンザ節」というものが伝えられているが完成までの間、この歌が風に乗って十湖の耳にも届いたのではないだろうか。
 ザンザ節
 ・・・天竜川原で昼寝をしたら(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
     鮎に瀬上り夢に見た(ドッコイショ)
   お茶はお茶でも見付のお茶は(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
     海を渡ってアメリカへ(ドッコイショ)
   芋がうまいと褒めてはみたが(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
     三っ日続けばママほしい(ドッコイショ)・・・Setumei03
 橋が完成するのを待ち望んでいた十湖(当時は引佐麁玉郡長)にとって、この句は橋が実現したことに対して、万感の思いを豊田橋開橋式に認めた句であったにちがいない。 
 現在のかささぎ大橋の手前にはその橋脚の一部が残るだけである。だが、この橋を渡る風は今も昔も変わらない。自ら歩いてみて十湖の事業の足跡を確かめたい衝動にかられる春の風である。
       春風もふき渡るなり橋新た
 

| |

« 県議会初登場!吉平祝句披露 | トップページ | 遠州画人展開催される »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 春風もふき渡るなり橋新た・・・豊田橋を詠む  :

« 県議会初登場!吉平祝句披露 | トップページ | 遠州画人展開催される »