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2012年3月31日 (土)

石楠花と黄鶴

 大正14年5月末、霧雨といってもよいようなぬか雨が大蕪庵の庭を濡らしている。
 77歳になり老境に入った十湖にとって、今朝の天気はうっとうしいどころか気持ちが落ち着くのに一役買っている。
 いつもなら新聞を読んでいる宗匠の姿があるのだが、珍しくぼんやりと外の風景を眺めている。
 庭の霧雨に包まれた石楠花の淡く赤い花が十湖の目の先に映っていた。
 この年の初夏には高野山方面への吟行行脚を計画中で、同行者を決めかねて思いあぐねている様子である。
 70歳を越えたからといって足腰が弱いわけではない。ただ、細かいことをすることが億劫になった。
 旅先で迎える側の俳人仲間に無作法なことをしてはいけないと、心配りをすればするほど同行者を誰にすればいいのか気にかかる。
 人数はいつも3人が同行する。それぞれに役割があり、てきぱきと毎日の生活分担を処理をしてくれれば自分は発句するだけでよい。
 そう思いながらも吟行に出れば付き合いの細部にまでこだわり、同行者に対し大きな声を張り上げ、叱り付けることがこれまでに何度もあった。
 今回の旅は自分にとっては最後になるかもしれない。せめてきっちりと礼儀正しく、発句も後世に残るものをとの思い入れがあり、霧の雨を眺めながら想いに耽っていた。
 霧雨の中の石楠花は、自ら目立とうとはしないが、この日は十湖の目に訴えかけているようにも感じた。
 この花の苗は、今から7年ほど前、弟子の鈴木黄鶴が
「この庭に自分の好きな花を植えてもよろしいでしょうか。」
と申し出があった。
 そのときは十湖は
「男の癖に花作りに興味があるのか。もっと句作りには専念しないのか。」
と一蹴したい気持ちで怒鳴った。だが、その理由を聞いて無下には断わることができなかった。
 黄鶴が初めてこの大蕪庵にきたのは19歳のころである。
それから6年で立机を許した。大正五年25歳の時だ。以後楽転居淡水と号していた。
 決して俳句作りが特別優れていると言うわけではなく将来への期待も含めてのことだった。
 大正11年のときに初めて北国行脚の同行をさせたところ、その想いが的中し旅の金銭勘定を初め、現地での折衝など事細かに先輩春雄との意見を交えながら旅は順調な展開だった。
 このとき唯一気にかかっていたのは同行者を途中で帰してしまったことだった。十湖にとって今でも胸に痞えている。
 だから今回はそれを償い同行を許してしまおうかと思ったが、世間の風が十湖のもとに黄鶴の不評を送ってきた。
 北国行脚に同行させる2年前の大正8年黄鶴は平口不動寺周辺の辺田原地区に桃の果樹園を経営し、地域の青年たちに俳句を披露したり指導して自分の弟子にしていた。
 その数10数人に及んでいたという。
 併せて画の道も盛んで翌年には画会を開催し、その売上金を不動尊の改築の資金にと不動寺に寄付をした。
 彼に画の道の指導をしたのは天竜龍山村の大石黄梅だった。
 そのきっかけは、たまたま大蕪庵に画会開催のために立ち寄った時のことだ。
 黄鶴が自分の植えた石楠花を縁側で画いていた時に黄梅の眼にとまった。以来黄梅の手ほどきにより画に専念することが多くなったのだった。
 おかげで画も売れて羽振りの良かったのはここまでで、2年後には果樹栽培は断念し、小松に瀬戸物店を開業した。その傍ら印刷を副業としていた。
 仕事がうまくいかなくなると、身辺では疎んじられる。本人の奇行も目立ち始め、変人との噂も絶えない。家庭生活面では酒びたりの毎日であった。
 不評とはいえ彼の経済面から出たものであり、だからといって俳句が駄目というわけではないし、画が駄目だということでもない。持前の偉才は生きているはずだ。
 霧雨のなかの石楠花を眺めながら、十湖はやはり黄鶴を同行させようと決めたのだった。
(黄鶴の画「石楠花」)Syakunage_2

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