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2013年2月15日 (金)

報徳仕込み その2

 十湖は嘉永二年の生まれで、六歳で隣村羽鳥村の源長院において読書、習字を学び、十二歳に家へ戻り他の仏門によって教典漢籍を学んだ。
 十六歳にして、俳諧の小築庵春湖の門に入り詩文国学を修め日夜勉学に励んだ。俳諧は父母がいずれもその道の先駆者で号で呼ばれており十湖にもその素質が芽生えていた。
 どれをとっても理解力があり、しかも行動的で以後災害救済を通じて報徳法に心酔し民の心をひとつにし、農政家として民心を一身に集めていくことになる。
 明治五年二十四歳のとき、中善地の人々ともに三才報徳社を福山滝助の教えを守り実践し、「遠譲社中善地支社」として設立した。主旨は
一 天地の化育に人の賛す是れ三才なり。天地の間に生じたる財宝を私するは慎むこと、されば 貧者を救ふべし。是の差出金を元怨金と称ふ。
二 三才報徳の元怨金拝借を元怨金以って家業精出し、家業立ち直りしは元怨金差し出し、即ち 三才の恩沢に報するに誠心なること。
三 親親の者何ほど元怨金を差し出しこれあり候とも、子孫の者親の志に背き、心掛よろしから ざるに於いては、相助不申間敷候。改心の時は格別のこと。
四 富者の貧者を恵むの道至誠なりとも、その者に益なく助からざる時は捨てるに同じとも先生(尊徳)に相伺い候、拠って衆評の上能々善人を選みて助くるが肝要のこと。右の条々永久堅度相守可申候
 この三才報徳社を組織した人々は、根本信義を良く守り成果を上げて、以来組織を二十五年間継続した。
その初めの頃は十湖がそれぞれの社員の家へ行っては激励した。
「元怨金を払うほど収穫がないなら、毎晩縄をなったらどうかな。」
「それでよければ簡単なことだ、毎晩でもやる。」
と社員は同意した。十湖は自ら筆頭にたって、毎夜縄集めに各戸を廻った。集めては安価で売り、社員中の救貧費に当てていった。
こうした十湖の仕方は各地に知れわたり、営繕司御用係、中善地百姓代等を勤る傍ら、かねての地域住民の念願であった中善地と匂坂村とをつなぐ渡船の便を開いたりした。
 明治六年戸長制度が実施されると、十湖は浜松県より中善地戸長を拝命した。
 地域における諸問題を解決しながら、制度の改革にもつとめた。その実績を買われ大迫県令の奨めで県官に奉職し、県会議員等の公職を歴任、三十三才にして引佐あら玉郡長に就任し、さまざまな事業を遂行していった。中でも天竜川の治水にあっては金原明善の事業にも協力し、自らは念願の豊田橋の架橋を図ったことは後世に知られる事実である。
 郡長として赴任して以来、公務の傍らさらに報徳法を広めようと有志らで西遠農学社を創立した。明治十五年八月のことである。
この時の主旨は「農会の利益たるは例えば棒にて担ぎしものを車に換えれば凡そ人の力を増し、資金は千円なるも千人にて出金すれば一円にて千円の値を得るが如し。この手段は労苦にあらずして安楽の種なり。」と。
 郡長としての公職にあるうちは自らが主唱者になり行動するのは憚れた。
 自らと異体同心とも言うべき腹心の友である松島授三郎と野末九八郎らを報徳法の提唱者として、十湖自身は郡長としてその後押し役に徹した。
 後に三遠農学社と改称し、引佐のみならず三河方面や駿河方面にも広がり、組織されたものは数百社に、その社員も二万人を超えた。時代が組織を必要としていたのだった。先に創立した報徳遠譲社とともに日増しに実績を上げていった。
 その後滝助系の報徳法による分社は遠州だけで二百余社、三遠農学社一系分社、三重、愛知の両県に七十余社を数えるにいたった。こうして相州柏山の尊徳出身地より発した芽は、岡田系の遠江報徳社派の隆盛をも合わせて遠州においてもっとも花咲き実ったというべきであった。

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