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2020年7月30日 (木)

四国の旧知(4) 第414回

 鳥羽で遊んだ後は岡山へ出て四国に渡り、かつての報徳の同士と会う予定である。
 市野村出身の富田久三郎である。十湖より三つ下だからこのとき六十八歳になっている。
 明治十八年当時、十湖は引佐・麁玉郡長として公務に専念し、一方で農政改革のために西遠農学社を設立した。
 その活動をともにしていたのが、市野村出身の富田久三郎であった。
 富田久三郎は一八五二 年に遠州長上郡市野村(現、浜松市東区市野町)で生まれた。生家は姫街道の要衝で代々錺屋(かざりや)を営み、祖父保五郎は火術家(火薬に精通した技術者に対する江戸時代の呼称)として近隣で有名であった。
 久三郎はこの祖父の薫陶を受けて青年期より舎密(化学)を学んだ。
 二十五歳の時に当時高価な薬品であった炭酸マグネシュウムを苦汁から製造する方法を確立し、地元市野や浜名湖周辺で製薬業を拡大していった。
 そんな折、引佐麁玉郡長であった十湖から農家の副業についての相談があり、それに応えたところから久三郎との親交は深まっていった。
 青年期から壮年期にかけては、郷里遠州で金原明善と十湖の思想や行動に大いに感化されている。後年、久三郎がドイツ兵俘虜から技術を学び「 工農一体化」 を推進しようとしたのは、この二人の先輩の影響によるところが大きい。
 やがて、久三郎はさらなる事業拡大のために苦汁の大量供給地に進出すべきと考えるようになり、瀬戸内十州塩田の中から適地として撫養塩田を選び、遠州から阿波への移転を決意した。
 一八九二年久三郎四十歳の時に、風光明媚な小鳴門海峡沿いの、板野郡瀬戸村明神に富田製薬工場を開設した。

Koba39a(写真:「富田製薬百年のあゆみ」より)

 

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