俳人の礼(15最終回) 第410回
同月二十五日は、いよいよ大撫庵を辞し去る日である。一生の記念としようとした今度の旅も今日で終わるのである。
五時に床を出て十湖に逢う。昨夜の嵐は知らぬ顔である。相ともに別れの盃酌み交わし、令夫人のおもてなしの朝餉を頂戴した。
八時、惜しき別れを大撫庵に告げた。
玄関には馬車が二台横づけにされている。
「さあ、乗ってくれ。浜松駅まで見送るよ」
翠葉は見送りだけは辞退したが聞き入れない。
十湖は笑顔で翠葉を馬車へと導いた。
もう一台の馬車には雪城、鶴眠、水野以文画伯、山下淵澄等が乗り込んだ。彼らも見送るという。
二台の馬車は嘶きとともに駆け出した。車中での会話はしめやかで、やっと浜松駅に着く。
改札を抜けたところで十湖から土産を渡された。
大荷物が三個、そのほかに手荷物の合札もあった。それらはすべて翠葉への土産として贈られたもので品数は百余点である。
汽車に乗り込もうとすると、十湖の万歳の発声と見送りの人々の声に送られた。
汽車は一路、東京を目指した。車窓に映る風景の中には家族の顔が浮かんできていた。
あくる日、大撫庵はいつものように、庭に放し飼いの鶏の声が朝を告げた。だが、庵からは誰も出てこない。朝日に向かって手を合わせる者もいない。ただ竃で飯を炊く炎がボーボーと呻っている。
台所では佐乃がまな板を叩く包丁の音が心地よく響いている。
昨夜の酒が利いたのか、眠気眼の十湖が庭を見てひとり呟いた。
「誠をもって風交する俳人は世の中には沢山いる。その中で楽しい誠の友と親しく膝を接し、楽天境に浸ることができるものがどれだけいるだろうか。わしは果報者よ、誠の付き合い方を翠葉に教えられたわ。良き盟友を持ったものよ。俳人としての礼はあいつのためにある言葉だな」
(十湖が花笠庵翠葉宗匠の来杖を歓び詠んだ句 客うけや庵は幸い竹の春)
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