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2020年7月21日 (火)

四国の旧知(2) 第412回

「わしは俳句が文学でなくてはいかんとは思わぬ。子規の弟子たちが自らの句会を俳三昧と呼んで日常の様々な情景を詠んでいる。わしのすることと大して変わらん。三昧とは仏教用語で禅を意味し心を一時に集中することで俳句を練るという意味に通じる。わしが常々弟子に用いる格言に俳は禅なり禅は俳なりというのがある。つまり俳禅一味ということと一脈通じておる」
「翁らしいことばだ。せっかくだから涼風に吹かれながら、その辺をご教示いただきたい」
 うんうんと頷きながら和尚は膝を乗り出し云った。
「俳は禅なり禅は俳なりとは、昨年俳友の雲林居一哉の碑除幕式でしゃべったことだが」
 と十湖は前置きし、さらに続けた。
 二人とも顔は境内に咲く百日紅の花に向いていた。
「俳句も禅もどちらも理解し得ないと、俳味を理解したとは云えないのだ。雲林は荻野という徳のあった和尚の下に参禅することで、俳風を一変して基礎を確立したと聞く」
「要するに原点に立ち返って、基礎から学び始めたということですか」
「うーむ。こんな句が残っている。

  ――蚊のいくら来ても動かぬ柱かな

 雲林のこの一句は、俗を脱して禅に入らなければできなかったものだ。俳風一変したことで門人は百にも達し、雲林の薫陶によって名を為すものが少なくなかったようだ」

S3gencyoin

             (写真は「本堂落慶記念誌」より引用)

 

 

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