雨の訪問者(3) 第431回
とかく記者が相手となると、十湖は気が大きくなって口が軽くなる。弟子の中には記者も多く特別な人間だとは思っていないからだろう。
年少時代は寺子屋の洟垂れ小僧をして小笠郡横須賀へ通い四書五経を読ませられたり文字を手習わされていた頃、七夕の短冊の古いやつを解いて、習字をしたこともあった。
本を買うのに金がないため、祖父の使い古しの虫の食った本を裏打ちしてまで、金原流の節約をしたことがある。
もとよりそう極度の倹約をしなければならなかった訳はいずれも天竜水災で数次に亘り祟ることがあった。
金原翁が天竜治水に尽し始めた折、十湖もまた明治元年先帝の江戸へ東上遊ばすに際して、自村堤防の急策に当り、五月その竣成を告げ御通過のご安全を図り奉った。
即ちこうしたことが故金原翁の向うを張った話の一例であって、十湖は最近「嗚呼金原明善翁」の印刷物を出したという。
小原は十湖のペースで話が進むのを恐れ、話題を変えてみた。
「ところで聞くところによりますと、翁は日本に初めて伝わった西洋式の軍学をやったことがあるそうですが」
「横須賀藩の若いやつらや田原の藩士とともに、その頃デンデコデンと称した軍隊教練をやった。その後(陸軍編成)鎮台が各地にできたんだが、引き続き兵隊をやっていれば今頃は大将ぐらいにはなっているぞ」
と熱が高い。だが十湖の性格としては到底軍人の畑に居座っていることはできなかった。
「寡婦になったひとりの母りうが懸命に家のことをやっているのを見ると忍びなく、わしは軍服を脱いで百姓姿になり田地の整理に汗を流した結果、荒蕪した河原が十四町歩が元の田に帰り、やれやれと一安心することができた」
と十湖はしんみり言った。
小原は十湖翁が時に大きな声で話したりするが、非常にまじめなる性格の所有者だと思った。決して奇人とは思えない。
「わしを生んでくれたのは母親だ、母親だけは孝行せねばならぬ。父は亡いからせめて一人の親の生きている間は滅多に外出もできぬ」
というふうに優しい一面も見せていた。さらに、もって生まれた風流味から、芭蕉の句の間仮名、隙仮名を耽読した。
「俳句の道は床しいものだ、芭蕉逝きて芭蕉なく、其角逝きて其角に対する蕪村あり、といえども遠く芭蕉に及ばず、それならわしがひとつ芭蕉になるまでやってみよう」
十湖のこんな負けん気が、心の倦んだ時も奮闘心の起こった時も、悉くこの俳句の微妙と味わいが基礎においてなった。
東海道では名古屋を第一として、遠州はそれに次ぐ俳道盛んなところである。十湖はついにこの俳諧に入らんと決心し、夷伯、嵐牛の両師匠について学びはじめた。両師匠は共に逝きさらに春湖の門弟となり十湖を号するに至った。
小原は翁の生活のすべてが俳諧によって出発していると知ったのだった。
(次週金曜日に続く)
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