雨の訪問者(1) 第429回
大正十二年四月末、新聞記者小原が浜松駅へ降り立った時、朝からの暴風雨は上がる気配はなかった。
駅前で車に乗り込んだ小原は三つ揃いの背広に帽子を被るスタイルで、この天気ならこの格好が最適だと安堵した。
年格好は四十歳を超えたぐらいで背が高く、髪を七三に分け案外甘いマスクの男である。
車のワイパーが不規則に動く。前方の景色はまるで見えない。
「まさかこんな日に訪問してくるとは、相手が思っていないだろう」
小原は一人呟いた。
奇人に会うなら、この程度の天候が相手を怯ませるにはちょうどいい、と鷹を括っていた。
車が駅から東へ向かう。進む道はぬかるんでいる。
そのうえ穴ぼこも多く、車は左右に揺れた。四十分程度で着くと運転手が言っていたが、ガタガタ道もしばらくの辛抱だ。
その頃、豊西村中善地の十湖は、妻佐乃と雨の庭を眺めながら話していた。
「この天気でも来るだろうかのう。新聞社の編集局長だといっていたが、わしもそろそろ伊勢へ参ろうと思っていた矢先に取材の申し入れがあった。
世間でいうわしの奇人ぶりを取材したいといっていたが、いつものように言いたいことがしゃべれるな」
「そうですね。でも余り奇人振りを発揮しない方がいいのでは。お客様は来てもこなくても準備ができていますから、心配は要りませんよ」
佐乃は来客の来るのを待ちわびている十湖の顔を見ながら嗜めた。
一方、車で向かっている小原が 市野村辺りへきた時、近道を行こうと笠井街道から脇道へ反れた。それがいけなかった。
「お客さん、すみませんね。車が泥の中にはまちゃって動けません。ちょっと後押ししてくれませんか」
雨は少しばかり小降りになっていた。
「困ったなあ。なんとかなりませんか。この雨じゃ一張羅いの背広が台無しだ」
「代わってやりたいが運転するのは私ですので、申し訳ないが」
「仕方ない。やりましょう」
小原は傘を差しながら車を押すが、びくともしない。傘は諦め両手で押す。タイヤが泥を跳ね返した。
やっとの思いで泥穴から車が出た時は、小原の足元がずぶ濡れのうえに背広が泥まみれだった。
十湖の邸の前へ着くと、車は警笛を鳴らした。
(次週金曜日へ続く)
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