雨の訪問者(4) 第432回
外は陽が落ちかかっても雨が降り続いている。
俳諧を基礎におく風流生活に没頭しようと決心した十湖翁にしてこれは不似合いなる官界の飯の味を知っている。
十湖は明治二十三年府県制のしかれた年に戸長・県官の実績を当時の大迫県令に見込まれ引佐麁玉郡長にすえられた。
以来六年間に亘って勤続したが私都合により辞任、官界から足を洗った。
十湖翁がいうには在職中における奇行としてはいかなる上司をもあえて恐れず、年に一回は郡内の各町を輪番にその町の芸者を総揚げして大騒ぎをしたものである。
今ならばたちまち綱紀の紊乱問題を引き起こすであろうが、翁は平気な顔をして部下の吏員に慰労の大宴会を張った。そうして風流郡長は二升八合の酒を徹夜してゆうゆう傾け尽くした記録を持っていた。
「我が好きは酒と女と山と水早起き俳句吉のため」これが翁の標語であり主義であったのだ。吉のためとは「吉平」自身のため、即ち十湖翁自身のためであると、この狂歌をものにして信条としていたのである。
さらに翁は言う。
「芸者を総揚しても寝妓を買うという意味ではないぞ。女房一人今わしの傍に座っている。佐乃(72歳になる)子一人しか愛していなくても、女が好きであれば仕方があるまい。大勢の女を知ることだけが好きという条件にはならんからな。今でもやらしてみよ。きっと芸者を揚げて遊ぶくらいの事をけっこうしてみせる。早起きかそれも毎朝しているよ。どんな日でも電燈の消えぬまに朝飯を食ってしまわんと、そう一日不愉快でたまらんからの、まて好きなものにもうひとつとろろ芋があるぞ。郡長時代にもとろろ郡長とあだ名されたくらいだ。宿屋でもわしの顔を見るとすぐに芋を買いに走るほどだからな」
ところが先に記した信条に背いてこの六年間酒は一滴も飲まないで居る。
「どうして酒は飲まないのですか」
と小原が糺すと、
「それは貧乏が身にしみているから飲まないのだ。世の中に怖いものはこの貧乏神よりほかはない。これから金原の遺したほどの金ができないものかと思っても居るんだからね。しかし、おい、君は酒を飲むだろう。他人の酒までは倹約しないさ」
と佐乃を呼び、酒を持ってこさせた。翁は杯を取り小原に差し出した。
「いえ私だけが飲むんでは申し訳がない。翁も一緒にどうか飲んでください」
「うーむ、今日は客の接待だからの。ひとついただくか」
(次週金曜日に続く)
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