雨の訪問者(2) 第430回
家の中から妻の佐乃が傘を持って出迎えた。
「遠くからお疲れ様でした。それにしても何でこんなに濡れたのですか」
車から降りたずぶ濡れの小原に手ぬぐいを差し出した。
「車が泥に嵌ってしまって雨の振る中押し出したんです。災難でした」
小原は佐乃の顔を見つめながら恐縮していた。
邸の庭はこの雨で藤も芍薬もすべての木々の新緑がそよぎ立ち、酷くあやめられていた。廊下越しに見える十湖の姿は滝のように落ちる軒先の雨を書斎からながめ、銀髯を撫で下ろしつつ黙想していた。
小原はこの古い俳人にして新しいいものはロイド眼鏡かなと思った。
「始めてお目にかかります。新愛知新聞の記者の小原と申します。この度はお忙しい中をお時間をおとりくだされ、ありがとうございます」
通された部屋は十湖の崇拝する偉人や門弟などの書画で隈なく占領されていた。障子には書の書き古しや書き損の紙が当てられていた。
俳聖芭蕉の木像や天竜川大氾濫の当時拾った川流れの大黒や恵比寿さんなどが床に祀られていた。
福神像は頬が欠けたり顎が落ちたりしていて根っから福福しくはなかった。
「わしが氾濫から救い出してやったのだ。その奇特を褒めて福の神が迷い込むだろうと思って待っているが、一向にやって来ぬ。恩知らずの神様だ」
と十湖翁は笑いとばした。小原も合わせて苦笑いを見せた。
佐乃が熱いお茶の入った湯飲みを二つ、盆に乗せて戻ってくると
「早速ですが翁の人生をお聞かせしてくれませんか」
改まって小原は本日の用件を切り出した。
「し切り直されると話しにくい」
十湖はそういいながらも、これまで何度か天竜川が氾濫し田畑、自宅も何度か流されたこと、そのたびに自分の事より隣人の救済にあたってきた事を縷々話した。
このとき十湖は丸裸同様になっても構わず、蔵の中の米麦を一俵も余さず潔く投じて奉仕した。喜んで母りうも協力したのであった。
今年1月に亡くなった金原明善が奉仕し始めたのもこのときである。
以来今日に至るまで「明善と十湖」を並べてその人となりを世間で評されてきた。
したがって亡き明善翁の事を最もよく知っているものはこの十湖であり、両翁の間には人の知らぬ面白い話もたくさんあると続けた。
「わしはいつでも貧乏している。だが、しかし大正の二宮(尊徳)といわれた。故明善翁と向うを張って競争したことがあるから面白かろう」
とフンぞった。(次週金曜日につづく)
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