« 大火(1) 第435回 | トップページ | 大火(3)  第437回 »

2020年10月23日 (金)

大火(2)  第436回

 焼け落ちた遠陽市場とは、浜松の中村藤吉を中心とする商人たちが、笠井に隣接する恒武町地内に新たに商店街を建設したものだった。
「遠陽市場」と名付け明治二十三年十月二十日打ち上げ花火とともに開設式が行われた。
 笠井には江戸時代以前から笠井市場が発達し、流通が盛んで賑やかな土地柄であった。
 それを目につけた浜松の商人たちが入り込もうとするが、既に店舗の入る余裕がなく、しかも店賃は余所者には冷たく高かった。
 それでも浜松と比べれば取引は盛んであり、ここは何としても商人らは引き下がれなかった。 
 不満は燻っていても商人たちが一つにまとまれば何とかなるとの決意で、浜松の財界中村藤吉が立ち上がった。
 中村藤吉は職業小間物商、事業家。報徳仕法をもって明治時代に浜松地方に財を築いた財界人のひとりだ。
 中村家はもともと農家だったが、永禄十二年家康が浜松に城をかまえるとともに商売を始めた。
 天秤棒や背負籠などを販売していた。そこから「棒屋」の商名が生まれたという。
 天明五年に分家したのが初代藤吉で、今の藤吉は安政元年浜松宿田町(現:中区田町)の棒屋中村商店に誕生した次男中村清助が棒屋六代目を名乗ることになった。
 明治六年肴町間淵酒屋のはな子と結婚。
 明治十二年には浜松町会議員に当選、明治二十年奥山の富幕山に林道を作り、山を買って杉苗を植えた。
 明治二十一年からは十年かけて、現在の北区引佐町をはじめ都田町にも植林事業を展開し、自費で道路修築や新道開通、橋梁仮設を行った。
 明治二十五年浜松委托販売会社を設立。四年後浜松信用銀行(現浜松信用金庫の前身)の設立発起人となり、設立後は取締役に就任した。
 さらに明治三十五年浜松商工会議所会頭、明治四十年大日本報徳社役員、明治四十四年浜松市会議員等を務め活躍したが、大正十二年七月十三日逝去した。
 こんな逸話が残っている。
 ――商売をする事は、どこかで人のためにならなくてはいけない。人を困らせて自分だけ儲けようなどとは、商業の道ではない
 藤吉は不良田を買って良田にすることが大きな楽しみだったという。
Boya


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村

| |

« 大火(1) 第435回 | トップページ | 大火(3)  第437回 »

大火」カテゴリの記事

中村藤吉」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大火(2)  第436回:

« 大火(1) 第435回 | トップページ | 大火(3)  第437回 »