大火(3) 第437回
同年七月十四日の葬儀は暑さ真っ盛りであった。
藤吉の葬儀は地元財界人の大物とあって弔辞が延々と続いた。
十湖も列席していたが、自分の出番の頃には列席者は皆疲れ切った表情をしていた。
いや、むしろうんざりしていたというのが確かだろう。
十湖は立ち上がると霊前に向かって一句、大声で捧げてひきあげてしまった。
――われひとり冷たい国へ行かしゃるか
笠井の南の外れは畑ばかりで街道は笠井の本町から西へと延びていく。
この畑に突然家並みが出現した。
浜松から出店する四〇店舗が店を構える。
笠井市場が手狭になっているため、当然のように新しい市場には人の波が押し寄せる。
市の日には周辺町村のみならず、遠方からも繰り込む商人らで活気があった。
笠井はもともと木綿織物の集積地であり、小物の販売だけでなく織物の取引が圧倒的に占めた。
この時代、戦争へと突入する時期でもあり、織物の取引は一段と活況を帯びた。
笠井の歴史を振り返ったとき、以後大正の初めころまで遠州織物産地として景気が沸騰していった。
十湖ら俳諧師にとっても市場の開設は文化の交流にもつながり歓迎した。
鳴らす手が市の景気よ朝夷子
遠陽市場の出現は古来からの街道にも影響を及ぼした。
笠井街道通称笠井往還はやがて市場を通り抜け南へ延びていくのである。
だが、いつまでも戦争に依存した景気は長続きせず、やがて活況に陰りが見えてきた。
大正時代になり、産業の近代化ととともに物流は変化していった。
市場の店舗も流通の拠点は浜松町に移しはじめていった。
笠井は交通の不便さもさることながら、主要産業の織物の需要も減り、店舗の歯抜けが目立ちはじめ、市場は長屋群として形を変えつつ笠井街道に残った。
大正十三年、折からの西風を受けて火は瞬く間にその長屋を総なめにした。
火災による焼失は十四軒。これにより明治二十三年に開設して以来、三十四年間続いた遠陽市場は完全に機能を失っていた。
まだ火災の臭いが残る焼け跡で、十湖はひとり自らの人生と重ね合せていた。
栄華はやがて没落し、人は立ち向かわなければならぬ。
悲惨だと思うより未来への足掛かりを探し求めていた。
(完)
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