若き日の富田久三郎(4) 第450回
自宅で静養していると、今回の事件が思わぬ形で保五郎に影響してきた。行なった罪より保五郎のエレキテルの知識が買われ、この仕掛けの注文が舞い込んできた。だがこの地では道具も揃わず量産もできんと判断して、市野村の実家へ帰ることを決断した。
保五郎の家は姫街道に面し、長上郡市野村で代々錺職を兼ね鍛冶職を営んでいる。
錺職(かざりしょく)とは錺屋のことで鎖、かんざし、煙管、家具の金飾りを作り販売している。
そんな家業を保五郎は婿養子に譲り、自分だけが田原藩から年三人扶持を受けて居住していたのだが、今回の事件で戻って来た。
保五郎には生業意外に鉄砲作りの技もあるので田原藩では火術家でも名が通っていた。
若い頃に長崎で学んだと言われるほど西洋の新知識を持ち得ている。
家業の傍ら最も多く製造していたのは火薬、発火具、雷銀などである。発火具の発案は尾州藩の藩医であるが、雷銀は讃岐の国の馬宿の住人が西洋学に学び発明し、鉄砲の発火機の改良をしていた。
それを知った保五郎はそれに続けと火薬の材料となる硝酸、硫酸、硝石を、さらに炭酸マグネシウム、硫酸マグネシウム、硫酸ソーダなどを作っていた。
当時はこういうことをやる人間を「製薬家」とか「薬剤師」などとは呼ばれずに「火術家」と呼んでいた。
この影響を受けたのが孫の久三郎である。
ちなみに久三郎が祖父を見習い、聞きかじりで学んだ知識によって、炭酸マグネシウムを製造したのは六年後のことであった。
嘉永五年(一八五二年)二月二十二日久三郎は富田保五郎の長女ゆきと養子勘七との間に長上郡市野村に長男として誕生した。
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