若き日の富田久三郎(9) 第455回
「ひとまず岡野の家へ隠れるか。着いてこい、久三郎」
岡野平三郎宅ではすでに様子を察したらしく
「久三郎、急いでこれを着て逃げろや」
岡野は二人分の衣類と菅笠を持ってきて差し出した。保五郎と久三郎は百姓姿に変身し
「すまんな、岡野、結果は見てのとおりだ。これからしばらくの間逃げにゃなるめえ」
「いいってことよ。ここは落ち延びて時を待つしかないだろう」
旅費と握り飯を用意してくれていた。
二人は手に鍬を持ち、篭を担いで村のはずれまで来ると、集まった村の衆とともに酒を酌み交わし別れを惜しんだ。
「久三郎、あんたらは悪かない。悪いのは藩の奴らと大村家だ。わしらの気持ちを理解してもくれん」
村衆の中の長老が二人に向かって慰めてくれた。
日が暮れるのを待ち、いったん自宅へ引き返した。叔父の升二郎が来ていて、家族一同が無事であることを喜び合った。
「いつまでもこうしてはいられない。今回の事件にかかわったと思われる者はひとまず村を出る」
保五郎はいつしか今回の事件の処理で陣頭指揮を執っている。
「わしと久三郎、升次郎、河内佐内、横田の五名はまずは信州へ逃げる。その後のことは秋葉山に着いたところで決めよう」
その日の夕刻前には全員無事に秋葉山へ辿り着き、掛川へと下る二人を見送った。残る身内の三人とは森町の大日山まで逃れた。
常に行動するのは夜のため途中で叔父の姿を見失い困惑したが、事前に次の逗留場所をお互いで確認しておいたので、長篠の「藤源」という宿で再開できた。
これより先は名古屋方面へ向かうという。知り合いの旅館に潜伏し、事件解決まで隠れることにした。
一方、富田の自宅では、残された両親が今後のことを話しあっていた。
「わしらは家業を継いで生業に精を出している。今回の出来事は何も関与していないので、代官から問われても知らぬと言うしかない。うちの職人たちにも動揺しないように説明しておこう」
勘七はゆきに言い含めていた。事実、事の成り行きの詳細を知るものは誰もいない。事件の起こった原因だけは、村民の藩主のやり口に非があることへの反発だと共通していた。
徳川幕府の封建政治から明治の新政へ、日本が大きく転換を遂げようとする時期である。
久三郎にとって、自分だけの問題ではなく十七歳という多感な年代に遭遇した事件であった。やがて時が来れば解決してくれるだろうと勘七は世情の動きに理解を示していた。
ゆきは、その夜、久三郎の使った鉄砲を持ち出して、人目を忍び自宅近くの小川の底にそっと埋めた。
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