若き日の富田久三郎(29) 第475回
苦汁を大量に算出するためには塩が必要だ。
その産地を求めて久三郎には宇布見から取り寄せた過去があった。他人任かせでは到底思うほどの量が集まらなかった。
いまは、自分の力で塩業を興すことが最善の策だと肝に命じている。
舞阪は宇布見の真南で浜名湖の最南端にある。自ら塩を作る方法を考案し、ここで実現させよう試みた。しかし、塩価の暴落に遭い本業にも影響が及ぶと考え、やむなく断念せざるを得なくなった。
明治十九年(一八八六)六月二十五日、「日本薬局方」が制定公布され、翌二十年七月施行した。
当時、薬局、薬舗において販売を許可された薬品は「日本薬局方」に定められたもののみに限られ、薬品の価格が騰貴し、製薬業者の利益は膨大なものであった。
ちなみに久三郎が製造した炭酸マグネシウム及び硫酸マグネシウムは、後年いずれも日本薬局方に見事合格し
「薬局方に適合したもののうち、国産品は富田の製品のみである」
という賛辞を受けた。
ところが翌年二月十七日失火により市野の自宅と隣接の工場を全焼した。すべてが灰になったが、家族に怪我がなかったことは幸いであった。
だが、この惨禍で事業は振り出しに戻ってしまった。
いまさら後戻りすることはできない、家族を挙げて復興に全力を尽くした。
その結果、家業が再び元通りになった時、自らの研究を今一歩前へ進めようと考えた。それには苦汁を確実に確保することで、念願の炭酸マグネシウムを量産することであった。
(舞阪塩田基本構想)
| 固定リンク | 0
「富田久三郎 明治の化学者の若き日々」カテゴリの記事
- 明治の化学者 富田久三郎の若き日々「くろもじの花」(2021.04.11)
- 若き日の富田久三郎(36) 第482回(最終回)(2021.02.14)
- 若き日の富田久三郎(35) 第481回(2021.02.12)
- 若き日の富田久三郎(33) 第479回(2021.02.08)
コメント