俳人十湖讃歌 第25回 戸長の重責(1)
政府は明治五年十一月九日に改暦詔書を出し太陰暦を廃止し、今後太陽暦を用いるよう全国に通達した。
「明治五年十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」
要するに、この年は十一月で終わり、十二月一日は太陽暦の一月一日となった。
しかし太陽暦が何なのか知らない者は、これまでどおりの習慣の太陰暦に頼っていた。
なかでも、もっとも深刻だったのが、百姓だった。
従来の慣習によらないと種まきから収穫まで、さっぱり見当がつかなくなってしまうのだ。
また季語を命とする俳諧にとっても混乱を招いていた。
――されば暮の餅撞くこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋に買ひもとめて、ことをすますものあり。
――俳句を作るにも初春といひ梅柳の景色もなく春といわねばならず、桃、櫻も皆夏咲くことになって、趣向大ちがいとなれり
吉平は、どうしたら村民が太陽暦に馴染んでいけるのか思案中であった。
改暦が施行されて既に一年となる。
そこで思い浮んだのは翌明治七年より年々一月二日をもって中善地村の住民を自邸に招いて正月を喜び、一同で年頭の挨拶を述べたら、それぞれ自宅へ戻り年賀の行事をするのはどうだろうか。
これを皆で続けることによって一村よく親睦することになろう。
吉平には我ながらの名案だと気を良くしていたところ、この企画が見事に当たり何処の村よりも早く太陽暦に馴染んでいった。
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