俳人十湖讃歌 第26回 戸長の重責(2)
戸長としての役割が曲がりなりにも果たせ、それなりに恰好がついてきた明治七年十一月、浜松県より第一大区三十小区中善地戸長を命じられた。
浜松県の区割り変更によるもので戸長となったが、責任は村長並みになった。
吉平は若さゆえやる気もあり、これによりさらに辣腕を発揮し村の改良に取り組み、自らの理想の実現に努めた。
しかしながら心配の種は天竜川のこと、雨が降れば氾濫に備えなくてはならん。
普段は網の目のように水が流れ大きな洲があちこちに現れているが、いったん洪水となると川幅いっぱいに流れる。
住人にとって天竜川の恩恵を受ける一方、天竜川と戦いながら新しい土地を作って生きてきたのだ。
それは古代からも言えることで、流域の支流にあたる豊田川(通称大川)沿いで、昭和34年蝦夷森古墳が発見され稲作をしていたことが分かった。
6世紀前半に住み着いたといわれ、彼らにより地域に治水などの土木技術や新しい文化が広がったらしい。
彼らも天竜川の氾濫との戦いの歴史を作ってきたのだ。
明治元年に中善寺村中島が破堤したことがあったが、この年は、またしても氾濫の危機が迫っていた。
吉平宅に中善地の村の衆が集まって対応を検討中であった。
「今見てきたら、こっちの方は堤防の決壊の心配ないが隣村の倉中瀬の堤防が危ない。もう時間の問題だ」
監視をして戻ってきた者から報告があった。
「だが隣は何も言って来んぞ。自分らだけで守れるのだろう」
「そうだ、そんならわしらは家へ帰って自分の田畑やうちを守らなくはならねえ」
「それじゃあ少し様子を見るか、川の監視は交代でやれ。異常があればすぐにもわしに一報せよ」
吉平はみなにそう云ってこの場は解散した。
夜半になり雨も子安状態となったところで、吉平は仮寝をし始めた。
なんとかする手立てを考えねばと思いつつ眠りに入っていった。
(蝦夷森古墳)
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