俳人十湖讃歌 第72回 郡長その後(3)
明治22年3月、十湖の報徳法の布教活動に定評あり、各地で布教演説を広げた。
その効あってか県外の村の騒動にも立ち会い、全村民を集め村の悪弊を説諭し和解させたこともあった。
もしも金銭が関わっていることがあれば十湖の慈善により解決を図った。
4月に入り、とうとう十湖も「鬼の霍乱」となり体調を崩し活動は控えめとなった。
十湖の病気は2ヶ月にも及び活動に支障を生じ新聞に十湖名で「4月以来病気につき報徳会農談会及び発句点検等快気迄謝絶」との広告を出す始末であった。
新聞広告のせいもあってか2か月ほど静かに自宅療養を重ねる。
庭のアジサイに見とれていたら、専ら朝顔の蔓が伸び毎朝新しい花が咲き乱れる。
その元気をもらってか8月初め新聞に「病気全快及び郡長非職も満期」との広告を載せ、自由自在となったことを明らかにした。
まずはやれやれと徐々に活動を復活させはじめたころ、梅雨はあけたのに雨が続く。
その結果9月11日天竜川に架橋した豊田橋が洪水により流出した。
豊田橋は十湖らが発起人となって苦労して作った橋である。十湖は憔悴しきってしまった。
12月暮れも押し迫ったころ板垣退助の招きに応じて大坂で開催の旧友大懇親会に出席する。
十湖にとってこの会はまさに元気を与えてくれたようだ。
大阪の桃山なる産湯楼に全国から500余人が参加した。
久し振りに十湖は俳句を詠んだ。
桃山や小春の今日の人を花
この会は大阪中の島の洗心館での開催となる大同団結の臨時総会へと引き継がれた。
これにも出席し、浜松へ帰るや否や沢田寧らと相談し遠陽大同倶楽部を結成し、浜松報徳館において結党式を挙行した。
この時すでに会員600人余名であった。党員600余名中十湖が紹介によって入党するもの300余名にして十湖の勢力極めて旺盛であった。
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