俳人十湖讃歌 第75回 郡長その後(6)
これより在職中の建議は天竜川治水の儀であった。
地方税中最も多額の支出を要するものは治水費であり、その直轄する河川は天竜川、大井川、富士川、安部川の4大河川であった。
年々堤防工事のため出費する予算は数万円にとどまらず中でも天竜川にあっては巨額でだった。
当初予算で計上しても工事竣工後において不足を生ずるなど請負契約の手法に問題ありとして追及した。
こうして十湖は各方面で活動しながらも片時も風流の道を忘れることはなかった。
門人たちも各地から集まってくることから、心機一転これまでの年立庵の号を門弟吉川為龍に譲り自らは七十二峰庵を用いることにした。
明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。
そうした中でもいち早く各地の総代、相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと国に対し請願をした。同年10月のことである。
運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年11月には許可が出た。
これで1件落着と思いきや、ことがそう簡単には収まらなかった。
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