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2022年12月 6日 (火)

俳人十湖讃歌 第71回 郡長その後(2) 

 郡長としての資質を生かし、明治19年12月、自宅で農事を奨励し、地域の村道、橋など、どこでも車馬が自由に行き来できるようにした。
 用水路も同じく改良してきた。
 具体的には橋梁87か所及び豊田橋より見附に至る道路並びに橋梁10か所を自費にて修繕し、天竜川堤防に松苗1万本を植え付けた。
 年が明けて三遠農学社主幹を辞し顧問となり、未だ社則の不備な点を改定した。
 その間、十湖の非職における地域への貢献は枚挙にいとまなく、宇利峠の道路改修、笠井村の火事罹災者救助の寄付、原川村から匂坂中村への新道工事に寄付支援をした。
 十湖のこうした行動は三遠農学社への期待を高め社員の数も日毎に増加し2500余名になったと地方紙は報じていた。
 翌21年4月東海道線舞阪鉄橋が開通、9月には浜松停車場接続道路が開通し、この日をもって国鉄浜松駅が開業した。
 ただ天竜川鉄橋はできていないため西行きのみ開業となる。
 十湖にとって活動範囲の広がる1歩でもあった。
 なお、汽車は上り下りとも1日3本、浜松名古屋間の料金は中等1円70銭、下等76銭であった。
 翌年の2月には東京静岡間が開通した。
 周囲の環境が改善されるなか十湖の公的活動以外でも俳諧の道は忘れず同好の士を集め盛んとなった。
 郡長時代から生まれ故郷の中善地における撫松庵には地域の門弟らが集まり俳句に励んでいる。
 郡長以後となってからは一段と入門者が多くなり、庵を運営していくのは地元の出身者が中心となっていた。
 十湖の活動範囲が広がる一方、右腕となって支えてくれる人物の出現を熱望している時期でもあった。

Jikokuhyot13


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