俳人十湖讃歌 第83回 尊徳の遺品(7)
一七八八年に起きた天明の飢饉は、相馬藩の人口が三分の一になるという壊滅的な被害をもたらした。
四〇年を経て以来、藩の財政の立て直しは未だ達成できないでいた。
ところが相馬の窮状とは相反し、周辺の諸藩は既に二宮尊徳の指導を仰ぎ、六〇〇の藩で復興が成功している状態にあった。
この手法を地元では御仕法と呼んでいた。
これを見た相馬藩主は、新たに藩の中枢に尊徳の仕法を知る富田高慶等を加え、一八四五年から相馬中村藩で『二宮仕法』の導入で改革を始めた。
やがて、御仕法は相馬藩の理解のもと、藩の一大事業として積極的に推進していった。
だが、二宮尊徳自身は相馬の地を訪れることはなく、尊徳の弟子であった富田高慶が二宮尊徳の代理として指導にあたった。
その結果相馬家には巨万の債があったにもかかわらず、それを償い、財を成すことに成功した。
結局、改革は遅かったが諸藩の中でもっとも理想的に導入し、効果をあげたのは相馬藩だったのである。
相馬候は折に触れて尊徳に褒章を与えようとして、その機会を企てていた。
褒章の品は衆目の的である鶴氅と決めていた。
一年後古希以上の臣下を集め、宴を開くことになった。
相馬候はこの時とばかり、自らが愛用していた羽織の鶴氅を尊徳の前に差し出し、これまでの尊徳の功労こそ持つに相応しいとして、皆の前で与えたのである。
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