俳人十湖讃歌 第113回 東北漫遊(2) 車上の人
間もなく町家が切れた辺りで、それまで話しかけていた十湖の口が、急にへの字に曲がり寡黙になった。
松五郎は十湖が自分の応え方に癪でも触ったのかと気になり、怒られては損だと知らぬふりをして車を進めた。
ほんの短い時間だが右折をした時に見えた豪邸に、なにやら曰くがありそうだと思った。
豪邸の主は金原明善、天竜川治水事業で財をなし、政界、財界でも一目おく人物である。十湖とはこの地域の龍虎の間柄だといわれている。
二十年前「龍虎の会談」だと地方新聞におだてられ、二人が会ったときのことを思い出していたのだった。
「松五郎、わしと明善はどっちが龍で虎だと思うか」
「そりゃ誰が見てもはっきりしていますぜ」
「大体どっちが龍で虎なのか。ひげを蓄え、とぐろは巻かずとも酒を飲んだら、くだを巻く。人気もうなぎのぼりで、天に昇る龍のごとしだ。たぶん、わしが龍だろう。そうだろう」
十湖は当時を振返りながら、一人で悦になっていた。
「へい、そのとおりです。巷ではこんなことも云っていますぜ。ご存知ですか」
「ほう、それはどんなことだ」
二人とも話しに夢中になり、車のスピードも緩くなった。
駅近くに来ると、肉眼でも弟子たちが見送りに来ているのがわかった。
十湖が旅に出るときは、世話をする弟子を二、三人同行者として選ぶのだが今回は一人旅である。
「道中は退屈でしょうから、これを」
十湖が改札口を入ろうとすると、弟子の一人が手に持った駅弁と酒の入った包みを差し出した。
「悪いのう。それじゃ行ってくる。帰るのは気分しだいだが、留守を頼む」
十湖は弟子等に礼を言いながら汽車に乗り込んだ。
汽車は天竜川の橋梁をリズミカルな音を奏でて通過し、掛川、菊川、金谷の茶どころを走り抜けていく。
このころには朝が早かったせいか、十湖はうとうとと眠りに入ってしまった。
小一時間も寝ただろうか、橋を渡る列車の音で眼が覚めた。
既に富士川を通過中である。目の前に屹立する富士を見て大きな伸びをした。
喉の渇きを覚え弟子の用意してくれた酒を飲みながら、富士の眺めに放心していた。
今回の旅の目的は、東京に移り住んだ地元財界人の鈴木藤三郎に会いに行く予定である。
東京の小名木川にある私邸の新築祝いに顔を出し、句碑を建立する手筈になっていた。
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