俳人十湖讃歌 第115回 東北漫遊(4)藤三郎私邸
東京で泊まって三日目、鈴木藤三郎私邸での新築祝式に出席した。
さすがに出世した男の邸である。
東京小石川の工場隣地七千坪の広さの中に新築した。
祝辞の席で十湖は、この東京の地でなぜ自分が句碑をあちこちに建てるのか力説した。
その理由として自分が芭蕉の後継者であることを世間に知ってもらうことだ。
二つ目は、二宮尊徳の報徳精神を今に生かし自らが信奉することを、世に残していきたいとの思いを披露した。
ところで、今日の主役鈴木藤三郎は十湖とはいったいどういう接点があったのか話しておく必要がある。
祝辞の中で報徳精神をとうとうと述べていた十湖だったが、鈴木との出会いはこの報徳の運動にあった。
この時、鈴木藤三郎は十湖と七つ違いの四十五歳、遠州森町の出身で報徳社の社員である。
氷砂糖の発明で財を築き、報徳仕法を実践し実業家として成功していた。
明治二十八年には日本製糖株式会社を設立し、これから台湾へ進出し社長として活躍する矢先のことである。
報徳を早くから学び実践した苦労が、この実業家として成功する結果をもたらした。
時代は遡って安政二年(一八五五年)十一月十八日、遠州森町太田文四郎とちえの末っ子として誕生した。
幼名を才助といい、四歳にして同町菓子商鈴木伊三郎の養嗣子となる。
好奇心が強く勉強好きで家業の菓子製造を手伝っていたが、十九歳の頃、友が独り立ちしていくのを見て、自らを奮いたて一獲千金を夢見ていた。
明治七年、家督を継ぎ藤三郎と改名し製茶貿易を目指して開眼した。
この時、報徳に出会い、以後その精神を貫いていくことになる。
だが長続きはせず持って生まれた好奇心から、菓子作りの道に再び歩もうとする。
そこで氷砂糖の製造を思いつき、二十八歳にして氷砂糖の製造法を完成させた。
明治二十一年事業化に成功し、待望の東京へ進出したのである。
話を戻そう。
十湖は式典出席者に対し句碑建立をすることで、自分が蕉風の引継ぎ者であると声を大にして説明していた。
しかし、俳句界には芭蕉に対する批判者として正岡子規が登場し、風雅風流の俳諧は説明的で俳句じゃないと批判して一世を風靡していた。
世は正岡子規による自由律の俳句へと変貌しつつあったが、十湖は社会の風潮などお構いなく蕉風俳諧を貫いていた。
ところで、十湖が鈴木の私邸に建立した句碑には何と記されていたのだろうか。
短夜やされどたしかに夢ひとつ
明治二十三年ころに詠んだ句で、出世した今の藤三郎の境遇を表しているものを選んだといってもいい。
同時に十湖自身をも例えており、藤三郎とともに報徳運動を貫き、「人生は短いというが、まだまだ実現しなければならない夢がある」ことを吟じていた。
(私邸に建立した十湖の句碑)
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