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2024年1月30日 (火)

俳人十湖讃歌 第145回 息子の戦死(4)

   それから程なくして、十湖は一風変った行事を思い付いた。
 定例句会の準備のために朝から庵に来ていた弟子の随処を、大きな声で呼びつけた。
「今日の句会は敵国降伏祈念祭とする。各人に烏帽子、垂直の装束で来るように伝えてくれ」
「え、今からですか」 
 随処は怪訝な顔付きで聞き返した。十湖は一度言い放したら云うことを聞かない。
 今回は息子の生死を左右しそうな戦況を黙って見過ごすわけにはいかなかったのだろう。
 随處は十湖の性格を知っており、唐突な指図はいつものことだと自分の怒りを抑えていた。
「そうだ。正午までには時間がある。明日二十日にかけてやるのだから、まあ揃わなければ仕方が無い」
「わかりました。出席予定者のところへ弟子と一走り回ってみます」
 そういうと随處は弟子を一人連れて、下駄を鳴らして外へ出て行った。 
 会の運営は十湖が自ら考えた。
 会場の笠井街道沿いの旅館山形楼には神前を用意した。供え物には饅頭に鰹節、そして栗を並べた。
 供え物にしては変った取り合わせだが、十湖にとっては大きな意味のあることだった。
 まず、戦勝にちなみ饅頭、これは満州の代わり。鰹節これは勝男節。栗は同じく勝栗のたとえとした。
 句会の各章には、いずれも軍歌を仕込んだ百韻歌仙を興行した。
 誠に奇妙な句会である。これを新聞屋が逃すはずがない、当然のこと翌日の新聞たねとなった。
 十湖の狙いは見事に当たったのである。
 五月、バルチック艦隊の全滅で各地では戦勝提灯行列が行われた。連日の新聞はこの記事で埋まっていた。
 浜松駅周辺では笹竹に紅提灯を付け、頭上に振りかざして戦勝を祝う市民らが集まっていた。
 その光景を十湖は句に詠んだ。
  
     提灯にてらす世界や夏祭

 このころ日本軍が九連城を占領すると、浜松地方の学校では祝賀行事が組まれ、学生も参加した。
 戦地の藤吉は八月十八日からは遼陽に向かって前進し、首山堡塁に対して攻撃を開始した。
 日本軍の死傷者二万三千余人をだしたが、ロシア軍が退却を開始。九月四日日本軍が遼陽を占領した。
 十湖の元でも戦勝に沸いていた。
「遼陽が陥落したか。遼陽占領祝賀祭だ。早速連歌会の開催支度だ」
 十湖は機嫌良く囃し立てていた。感情の高ぶりで句は考えずとも自然に口から吟じていた。

     蜻蛉や百万の蚊をとり尽くす

 この最中の八月三十一日、登之助がロシア軍との大激戦を交え、敵弾に当たり若い命を落としたことを知らない。九月四日になっても十湖のもとには 訃報は届いていなかった。
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