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2024年1月13日 (土)

俳人十湖讃歌 第143回 息子の戦死(2)

  鷹野つぎの「娘と時代」の一節「日露戦争」はさらに続けて女学校生活を綴っている。
「私の女学校では開戦以来、生徒に対しては絹物の使用を絶対に禁じていたので、友達はみな更紗染めや、二子縞やらの木綿ものを着込んで、これだけは許されていた黒色の絹リボンを廂髪にのつけてあつまつていた。
 それがまた、お互いに鵜の目、鷹の目で、絹物と木綿ものみわけようとするので、おしやれをするよりも、うつかりはしていられなかつた。なかには爪で布地をガリガリとこすつてためしに来る者さへあつた。 
 ある朝、うかつにも、私が紅絹の襟をつけた襦袢を着て登校して行つたら、よつてたかつて、忽ちその紅絹をはぎとられてしまつた。
 かういふさわぎはその実は、ことに楽しい団欒で、みんながみな、一様に質素にするといふ一心一体の報国心をわづかな不注意をも正して、高唱しているやうなものであつた。
 学校では、出征遺家族の持参してきた千人針をさかんに結んだ。私のくみの者は、多くは寅年であつたから、みなが十五の歳のかずだけた。途中で糸を繋がないやうにと。…
 町では明治三十四年に創立されていた愛国婦人会の会員たちがめざましく活動しはじめた。
  汽車で征途に上る兵隊さんたちの、途中下車の休憩駅にあてられた浜松駅前の広場にバラック建の歓迎ホールが急増され、私たちも級を分つて、交々声援に出向いて行つた。
 このホールには大きなオルガンが備へつけられ、休憩の兵隊さんたちに、茶菓をさしあげ、くつろいでいられる間に、私たちはオルガンに合わせて、征途を送るにふさはしいいろいろの唱歌をうたつた。」Tugi01_20240113101501

 文中の女学校は浜松町立尋常高等女学校のことで、現在の浜松市立高等学校である。つぎら女学生は二月三月の寒い日も、戦地に行く兵隊を思うと寒いなどとはいえず、襟巻きも手袋も取り去って見送りをしたという。       
 同じころ十湖は冬日が差し込む縁側で、ぼんやりと庭の落葉した樹々を眺めていた。
「藤吉から手紙が届きましたよ」
 十湖の妻佐乃がうれしそうに郵便を手にしながら廊下を走ってくる。
 十湖は佐乃が差し出した手紙の封を切り、急いで取り出し読み始めると妻に云った。
「そうか。藤吉の奴元気にやっておるか。満州へ出征し遼東で激戦に参加とある」
「激戦ですか。あぶないですね。無事でよかったのはいいですけど」
「そればかりではない。台湾の戦いでは功労賞を貰ったと書いてある」
 佐乃は別段嬉しそうな顔はせず首を傾けて、手紙を読み聞かせる十湖を見つめている。


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