俳人十湖讃歌 第166回 芭蕉忌(4)
しばらく黙って筆を動かしていた十湖だが、おもむろに灯火を点じ始め、腕組みをしながら話し始めた。
「新派俳句の最も嫌う蕉風純月並みによって句を作るといえども、古色極まる一派の月並み連のように、いたずらに古人の残り粕を褒めつつあるものとは、わしはその趣きを異にする。古俳聖の趣味をたとえ、いわゆるその調べは一種のクラシックなれども、これに新しき時代思想を合せ、決して思想陳腐にして蕉風を脱せるごとくのものにあらず。富贍なる新思想と奇異なる人生観によって、みだりに利口ぶらざる句をものとし、余韻できたる如くにして一句は一句ごとに独特の俳味あるものを尊び、俗を化して俳となし味をして俳味に化せしむるの天才詩人、むしろ天才なる。かかる偉大な俳人、あえて自ら曰く、蕉派の隊長月並みの頭領なりと」
十湖は一息にして柏葉の要件に応えてきたのである。
その夜、柏葉は十湖宅に宿泊し夕餉を弟子たちと懇談しながら過ごす。
午前二時ころ降り出した雨の音で目を覚ますが、そのまま寝入る。
早朝、十湖より百人塚、一基一句塚を見物していけと弟子を伴い十湖の庵を出た。
東南に向かい数町歩み天竜川の堤を超えると御嶽神社に着く。
その西隣に摩利支天の小さな堂があり、そばに百人塚があった。
これらは十湖および門人の手によって建てられたものにして凡そ百五十基あり。みな自信作の俳句が記されていた。
さらに弟子の案内で次に向かったのは天竜川を眺めつつ七,八町上がり左に折れて豊西小学校の前を過ぎ十湖の檀家寺である源長院に至る。
寺は屋根の吹き替え中で取り乱されていたが、十湖の次男近藤登之助の句碑をはじめ門人らの句塚を見学する。
ここを去り北西に向かい笠井の町に至ると福来寺の観音堂を拝し、そのそばに建つ百数十の一基一句塚を見た。
これ等は十湖のちからによってできたもので、以上三個所の句碑は都合三百基であった。
柏葉はあらためて俳句を育てる十湖の意気込みを知ったようであった。
(2024年現在の百句塚:「現代によみがえる報徳の絆」参考引用)
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