俳人十湖讃歌 第196回 十湖の事件帳(5)
列車の車掌が車内で木崎を見た時の様子では、身なりも良く到底自殺するような人物には見えなかったという。
十湖には木崎が自殺する動機が見えてこなかった。
しかし、とるものもとりあえず東京の実家へ連絡すること、そして未だに身元不明の事件となっていることに対し、真相を明らかにするべく新聞社に連絡しようと思った。
十湖が今できる精一杯の行動であった。
十湖は女将ひでの話を思い出しながら、列車から転落したのは木崎であると確信していた。
自宅へ戻るなり急いで新聞社へ電話をした。
「今朝の画伯転落事故の記事だが、意識不明とあり、まだ氏名が公表されていないが、東京の木崎九皐画伯ではないか」
と伝えた。
新聞社ではもっと詳しく説明してほしいというので、ひでの話したことを完結に説明し、木崎は有望な青年画家であったと付け加えた。
受話器をそっと戻したとき、十湖の目頭があつくなった。短い日々であったが木崎が初めて豊西町中善地の十湖の元を訪れた頃のことを思い出していた。
木崎が来たのは一年前の大正三年十一月初頭である。
暦では夏はとうに過ぎ去っていたのだが、残暑がいつまでも留まり秋には程遠い感じがした。
その月の初めから信州の俳人春雄翁が客人として十湖に招かれて滞在していたが、自分は忙しいからとある日木崎に天竜川までの案内を頼んだことがある。そのときは木崎が快く対応して、初めて会った翁にもかかわらず、二人は意気投合して邸へ戻ってきた。
木崎には違った魅力があるのだなあと感心した。
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