俳人十湖讃歌 第203回 俳人の礼(1)
十湖の自宅である大撫庵に放し飼いにされている鶏が大正四年十月二十三日の朝を告げた。
とはいえ白々とした空があたりを照らし、未だ陽は昇ってこない。
いつもよりも早く目覚めた十湖は、陽が上がるであろう方角に向いて手を合わせている。
台所では竃に火が点され、炎が立ち上がってきた。
そのうち弟子の一人が玄関先で掃除を始めている。
かさかさと落葉を掃く音が響く光景はこれまでめったにないことであった。
言い換えればこの日だけは非日常の朝である。
「おい、いいか。今日は遠方からの友が訪ねて来る。粗相のないようにしてくれ。ただ、来る時間がわからないので、客人がいつでも朝飯が食えるように用意しておくように」
十湖は手拭いで顔を拭いながら、穏やかな口調で妻の佐乃に云った。
「今ご飯を炊いていますから、いつ来られてもけっこうです。それに」
妻は後の一言をいいずらかった。
「それにとはなんだ。また金の工面のことか。ツケにしておけ」
十湖には今日に始まったことではない。いつもの事だと云わんばかりに怒鳴った。
句会を開けばその度に出席者から祝儀が入るので、それほど金のことは苦にしてはいない。ツケにしても近所の支払いは良い方であった。
「もうそろそろ一番の汽車が浜松駅に着くころだ。連絡をくれれば迎えに行くのだが気を使っているのだろう、翠葉は律儀な男だ」
十湖は玄関柱に飾られている時計を見ながら、間もなく来るであろう訪問客を思い浮かべていた。
(当時の時刻表)
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