俳人十湖讃歌(第205回) 俳人の礼(3)
翠葉は歩きながら今回の旅のはじまりを思い出していた。
「俳諧は誠である。誠なき俳諧は真の俳諧とするに足らぬ」
常々、花笠庵の弟子たちに言い含めていたことばである。
こういうようなことを唱えれば、ある人は時代遅れの説だと笑うであろう。道徳にとらわれた意見として卑しむであろう。
けれども人は人だ。自分は自分である。たとえそれが価値のない意見としても、自分では価値あるものと認めた以上はどこまでもこれに服従し、これを実行すべく、努力し奮闘するところに人の人たる生命がある。自分の自分たる権威がある。
平生心がけているが、さて、こと志と違ってなかなか実行はむつかしい。
ややもすれば我が俳壇の潮流に引き寄せられ真面目にするのは馬鹿馬鹿しい、御座なりでさえやっていけばよい、こういう心がむらむら湧き立ってくる。と同時に一面においては不安の感想が燃えたってくるのである。
果たしてわれ等はかかる態度を以って永久我が俳壇の一角を占め得るだろうか。
誠に似せたすべての行為を具眼の俳人はおそらく許しはしまい。齢するだに汚らわしいと必ずや叱咤の声が頭上にふりかかるであろう。
こう思い返しては再び元の冷静の心にかえって、誠なるかな。誠ありてはじめて誠の友を得るのである、誠の友を得て、もってわが俳諧を楽しむ。無上の幸せであろう。
こう考えては更にさらに数段の勇気を奮い起こしては奮闘し、修養し来れることここに七年に及ぶ。
幸いにして我がこの微衷を諒とせられ、誠を以って風光去るる俳人が沢山にある。このゆかしい、この尊い、この楽しい誠の友と、親しく膝を接しての物語、恐らくは又これ天下無上の楽天地と云わねばなるまい。
去年信州小諸の同人を訪ねたのも、今年岩代の同人を訪ねたのも、皆この楽天境に浸るの快感をあじわいたいが為であった。
今またさらに関西の同人を訪ねんとするのもまたこの意味にほかならん。
翠葉は十湖のもとを訪ねるのも、同じ意味であると反芻していた。
だがどうしても、もう一人の自分がそれでいいのかと問う。
(当時の笠井町)
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