俳人十湖讃歌 第207回 俳人の礼(5)
旅行鞄を肩に掛け、田んぼの中の道を急ぎ足で行く。
翠葉は十湖が歓迎してくれるだろうかと、ふと心細くなった。到着する時間も伝えてないし、この様子では突然の訪問でしかない。
腹の虫も泣き出している。少しばかり後悔の念に駆られた。
それでも、爺さんも喜んでくれるだろうと思うと矢も盾もたまらず、一刻も早く会いたくてびっしょり汗をかきながら道を急いだ。爺さんと呼ぶのは十湖公認である。これまでの付き合いから敬意を失うような振る舞いは未だしたことがない。
竹林を抜ければ十湖の邸だ。十五年ばかり前に青木画伯と訪ねたことを思い出していた。今日は自分が独りで訪ねている。
「ごめんください」
と云うと中からどかどかと大勢の人が玄関に出てくる。
その真ん中に十湖と妻佐乃の顔があった。皆笑顔で迎えている。
十湖の目は既にうるんでいた。
「おひさしぶりです。お変わりありませんか」
翠葉は胸が一杯になり、語尾が聞こえたかどうかわからぬまま立ち竦んでいた。
「さぞ遠かったでしょうに。まあ、おあがりなさいな」
佐乃の案内で座敷へと上がった。
翠葉はこの歓迎ぶりに、思い詰めていた不安から解放されたような安堵感で、肩から力が抜けていくような心地よさを感じていた。
こうした出会いをどう理解すればいいのだろうか。不思議な縁だろうか。逢うも涙、別れるも涙、それを師弟の関係とでもいうなら何の不思議もないが、十湖との関係は師弟ではない。
それどころか、十六年前に門人名簿なる物が送られてきたことがあった。中を開いて見れば自分は弟子として掲載されていた。
これには翠葉も若かったので、すぐにも抗議したところ撤回することができた。
自分にとっては慈父のような感じの爺さんが自分を見ているのだろうと思っていた。
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