俳人十湖讃歌 第208回 俳人の礼(6)
今となっては笑い話に過ぎないがこんな逸話もある。
大正三年五月、十湖が東京に住む翠葉のもとを訪ねて来たときの句会での挨拶のことである。
「わしは、もはや老境に近づいたから、再び東京に来れるかどうかわからない。したがって今生の思い出として東京の主なる俳人と百歌仙を巻いて帰りたいと思う。それにはわしの事をよく呑み込んでいる花笠庵の厄介になりたい、当地には倅もある、弟子もいる。厄介になるに不自由はないが、しかし真にわしの事を理解してくれるのは花笠庵だ。同じ厄介になるならあんたの厄介になって帰りたい」
男として、ましてや俳壇に身を置くものが、十湖からの信頼を疎略にすることができるだろうか。翠葉は快くこれを引き受けた。
一には俳人としてこの上の名誉があるだろうかと感じたからである。十湖の難し屋、のんべい、暴れ者など十湖を知る人のすべては、だれでもこの間の消息を知っている。天下の奇人と歌われつつある位で、十湖を怒らせずに一週間待遇し得た人は、少なくとも十湖の気性を飲み込んでいる人である。十湖には皇室を除いては貴顕豪傑も眼中にないのである。その例とすべき逸話は数え切れないほどにある。
したがってある方面の俳人たちからは蛇とかげのごとく忌み恐れている、それほどのしたたか者の、冒頭第一の口上がこれであった。翠葉には感激の至りであろう。
「よろしゅうございます。ご存知の通りの貧乏世帯、これと云ってご馳走も出来かねますし、また私は種々の方面に関係していますから、一々お相手は出来かねますが、それでよろしくばご遠慮なくゆるゆるご滞在ください」
翠葉は自分の胸が高まるのを抑えて、淡々と答えた。
「ご馳走はいらないが朝一合、晩二合だけは振る舞ってもらいたい」
翠葉の返答のおかしさを忍びながら、承諾の旨を笑顔で答えた十湖であった。
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