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2025年1月20日 (月)

十湖の備忘録№1「柳田國男の長い織場の灯り」

 これからは十湖にまつわる郷土の歴史的出来事・新たな発見など「手控え帳」まがいで連載できれば開設者冥利につきます。
 第1回目は十湖の郷土が時代の学者によって、いかに受け取られていたかを当ブログでご案内いたします。

 筆者がある新年会の席で「かつて笠井町を通り抜けた有名人がいたが知っているか」と尋ねられたことがあった。
 思い当たる節もなかったので誰の事かと聞き返すと、「民俗学者の柳田国男氏がこの町を通ったことが何かに書いてあったらしい。」というのである。
 後日、図書館で柳田国男氏の書籍を探してみると著作集30数巻のうち、1っか所だけ「笠井」の町名を発見した。
「笠井」は松島十湖にまつわる地である。
「灯台下暗し」という格言があるが、意外や住んでいる住民には気が付かないことがたまたま通りかかった旅人によって、うまい表現で記載されていた。

「浜松の松は既に残り少なで、その代りに出来たのは織物の工場である。一機に一燈の電燈がついて居る。それが鉄道を越えて北は笠井の付近、更に二俣の対岸近くまで、只の農家でも二棟三棟の、長い織場を建てた屋敷が稀では無い。北を向けて明り採りに、屋根の片側を硝子にして居る。何とも無い山の上の農家に於て、静かな夕方に見て居ると、一時にぱつと美しい光が、広い平野を彩るのを見るやうに、もう世の中がなったのである。」
出典:秋風帖(大正9年11月、東京朝日新聞)より「野の火、山の雲」著者 柳田国男

 大正9年秋、柳田国男氏は島田の祭典を見て焼津方面から浜松に入った。
 天竜川を遡りながら笠井を通過し二俣へ向かっていた時に見た光景を文にしたものである。
 この頃、遠州地域は最も織物が盛んで織屋は二俣へと続いていた。
 因みに笠井の町では製造業者49、販売業者11、染色業者11に代表されるように大正末期の浜松地域の全工場のうち90%近くが繊維工場で占められていた。遠州織物の基礎ができあがったころであった。

 

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