鷹野つぎの養女時代余話(2)
つぎが十湖の家を初めて訪ねたのは二十一歳のときで長男を抱いて行った。明治四十四年のことだった。
「あのときは義父に逢うのが怖かったわ。だって屋敷の奥からいかめしい顔をして現れたからどんな話ができるかしらと思ったわ」
「君は優しいから、そんな心配はいらなかったのに」
弥三郎は苦笑いをしながら、その時の十湖の顔を想像していた。
「今を思えば、当時の義父は本当に俳句に熱心だったわ。通された書院には揮毫用の毛氈が敷かれ、机、硯、筆がきちんと揃えられていたわね。几帳面な性格だったかしら」
「夕食のときは話が弾んだかな。義父は酒を飲めば饒舌で調子が良くなるはずだった」
「そうね。子どもの話を始めたら、爛々とした目が下がり始め、白い長髭の義父が厳めしい顔から人懐っこそうな笑顔に変わったわ」
「そうか、過ぎてしまえばいい思い出だけが残るってわけだ。夕食のときはつぎの嫌いなものが出たと云っていたが」
「私って嫌いなものが多いの。あのときは出てこなければいいのにとハラハラしていたわ。そしたら大根の酢の物が出て、うっかり箸を付けてしまった。後から後悔したわね」
他所では嫌いなものが出ては小言もいえないが、どこの家でも食作法があり一旦箸をつけたものは食べなければいけないのに余してしまった。俳諧の行脚客などの場合は決して許されないことだった。
「あの時は子供のようなものだから義父も見て見ないふりをしたのさ。やさしいところもあるんだよ」
二人の会話が幼く、患者でいると甘えて人に優しくなってくるのだと弥三郎は感じていた。
「こんなこともあったわ。義父は機嫌がいいと、書くものがあれば揮毫をするといっていたわ。私にとってはどうでもいいことだけど汚されてはいかんと思い、手ぬぐいを差し出すと直ぐに腹の底をみすかれ義父の顔が曇ってしまったわね」
「それは義父の機嫌を損ねてしまったのだ」
「私も若かったしね」
つぎは自分のした失敗を年齢の所為にしたかった。でも今から思えば義父との懐かしい思い出であった。(次回へつづく)
| 固定リンク | 0
「鷹野つぎ養女時代余話」カテゴリの記事
- 鷹野つぎの養女時代余話(15)最終回(2025.07.22)
- 鷹野つぎの養女時代余話(14)(2025.07.12)
- 鷹野つぎの養女時代余話(13)(2025.07.09)
- 鷹野つぎの養女時代余話(12) つぎと十湖の初対面(2025.07.06)
- 鷹野つぎの養女時代余話(11)(2025.06.28)



コメント