鷹野つぎの養女時代余話(5)
当時の状況は同時代に浜松が生んだ女流文学者鷹野つぎの自著の中で、詳しく回想されているので引用しよう。
「娘と時代」の一節に日露戦争と題し
――ああ、それは明治三十七年といふ、記憶すべき重大な年の元旦を、私たちは迎へた。
私は数へ年十五歳になった。
実に、この年の紀元節の前日、二月十日は、露国に対する宣戦の詔勅が下されたのである。
「号外、号外!」
と連呼して街路を鈴をならして走って行く声。
二月二十四日には、旅順港口に閉鎖作業を開始し、三月二十六日には、旅順港口にての軍神廣瀬中佐と杉野兵曹長の戦死があった。
心のさだまらない、少女期の私の心にも、これらの戦報にて、澄みきったお国を思ふ一念が燃えたち、廣瀬中佐の死には、もったいなくて、くやし涙がこぼれた。
鷹野つぎの「娘と時代」の一節「日露戦争」はさらに続けて女学校生活を綴っている。
「私の女学校では開戦以来、生徒に対しては絹物の使用を絶対に禁じていたので、友達はみな更紗染めや、二子縞やらの木綿ものを着込んで、これだけは許されていた黒色の絹リボンを廂髪に着けて集まっていた。
それがまた、お互いに鵜の目、鷹の目で、絹物と木綿ものを見分けようとするので、お洒落をするよりも、うつかりはしていられなかつた。
なかには爪で布地をガリガリとこすつてためしに来る者さへあつた。
ある朝、うかつにも、私が紅絹の襟をつけた襦袢を着て登校して行つたら、よつてたかつて、忽ちその紅絹をはぎとられてしまつた。
かういふさわぎはその実は、ことに楽しい団欒で、みんながみな、一様に質素にするといふ一心一体の報国心をわづかな不注意をも正して、高唱しているやうなものであつた。
学校では、出征遺家族の持参してきた千人針をさかんに結んだ。
私のくみの者は、多くは寅年であつたから、みなが十五の歳のかずだけ結んた。途中で糸を繋がないやうにと。…
町では明治三十四年に創立されていた愛国婦人会の会員たちがめざましく活動しはじめた。
汽車で征途に上る兵隊さんたちの、途中下車の休憩駅にあてられた浜松駅前の広場にバラック建の歓迎ホールが急増され、私たちも級を分つて、交々声援に出向いて行つた。
このホールには大きなオルガンが備へつけられ、休憩の兵隊さんたちに、茶菓をさしあげ、くつろいでいられる間に、私たちはオルガンに合わせて、征途を送るにふさはしいいろいろの唱歌をうたつた。
(浜松市引佐町渋川 凱旋紀念門)
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