鷹野つぎの養女時代余話(6)
文中の女学校は浜松町立尋常高等女学校のことで、現在の浜松市立高等学校である。
つぎ等女学生は二月三月の寒い日も、戦地に行く兵隊さんを思うと寒いなどとはいえず、自然と襟巻きも手袋も取り去って見送りをしたという。
同じころ十湖は冬日が差し込む縁側で、ぼんやりと庭の落葉した樹々を眺めていた。
「藤吉から手紙が届きましたよ」
十湖の妻佐乃がうれしそうに郵便を手にしながら廊下を走ってくる。
十湖は佐乃が差し出した手紙の封を切り、急いで取り出し読み始めると妻に云った。
「そうか。藤吉の奴元気にやっておるか。満州へ出征し遼東で激戦に参加とある」
「激戦ですか。あぶないですね。無事でよかったのはいいですけど」
「そればかりではない。台湾の戦いでは功労賞を貰ったと書いてある」
佐乃は別段嬉しそうな顔はせず耳を傾けて、手紙を読み聞かせる十湖を見つめている。
「手紙の最後に俳句が添えられているぞ。やっぱりわが子だ。野戦でも風流の道は忘れてはいない」
「どんな句ですか」
「三句ある。
結ばれぬ露営に夢や時鳥
血を払ふ太刀の光の寒さかな
いさましう我もちりたし白牡丹
少しばかり勇ましい句だ。軍人らしい一面も忘れてはいないようだ。無理をしなければいいが」
「そんなに死に急がなくても、早く生きて戻ってくればいいのに」
佐乃は十湖の側に寄り添い、手紙を覗き見しながら小声で言った。
「いや軍人は常に生死を彷徨っている。俳句が奴の慰めになっているのだろう」
いつもなら大きな声でわめき散らすところだが、心なしか神妙な顔つきをして穏やかな声の十湖であった。
次男藤吉は十湖自慢の子供であった。
小さい頃から俳句に興じ、めきめきと頭角を現した。
十湖が引佐麁玉郡長として赴任中の明治十八年のこと、旧気賀の領主徳川家の旗本近藤家に子供がなかったため嗣子がなく、家が断絶しそうだという話を聞き、思案の末に養子として藤吉が近藤登之助を世襲した。
藤吉は俳人の子として育っていたため俳句にも精通し、のちに四時庵友月と号し俳句を作っていた。すでに近藤家の養子に相応しい文化的素養を身に付けた自慢の子であった。
だが悲しいことに、日本は戦争へと突入していく時代であった。
明治三十年、藤吉は二十一歳で軍人に志願し、翌年には歩兵二等軍曹となり静岡第三十四連隊付けとなった。
浜松駅が出征兵士で賑っている頃には既に満州の地へ向かっていた。
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