鷹野つぎの養女時代余話(10)
明治末期、長野県佐久地方には鉄道路線が整備されておらず陸の孤島であった。
一口に松原湖までといっても、そう容易にいけるものではない。
明治十九年(一八八六年)には信越線(現在のしなの鉄道)が直江津~軽井沢間に開通し小諸に駅が設けられ、明治三十五年(一九〇二年)に篠ノ井線、その後明治四十五年(一九一二年)には中央線が全通しており、佐久地方だけが鉄道から取り残された地区であった。
当時の長野県では蚕糸業が発展しており、鉄道敷設に伴い地域産業は発展し、鉄道は蚕糸輸送で大きな収益を上げていた。
佐久地方でも養蚕・製糸業が盛んであったが、鉄道網がない為に付随する他産業の発展は望めなかった。
又、豊富な森林資源も輸送手段がない為に手付かずのまま。
地域民は鉄道敷設による地域・産業開発を切望していた。
鉄道業も他地区の実績を考慮すれば十分に採算が見込まれ、更に千曲川の豊富な水量を
利用した発電所建設計画があり、鉄道敷設は必要不可欠と考えられていた。だがこの時期は軽便もなかった。
十湖は小諸駅で下車し馬車で湖畔の鷹野宅に向かおうとするが、列車の旅は常に酒が付きもの。一人旅では酒の量が増してしまった。
馬車に乗ろうとした時には既に呂律が回らず、歩行もままならず、車夫に何度も行き先を問われた。
やっとのことで乗車した十湖は上機嫌だ。
「旦那、松原湖の高野だなんていわれても、いくらもありますぜ。一体どこのたかのさんですかい」
車夫はとがった口調で言うと
「そんなことは知ったことか。いや、今日列車で来たばかりだから、えーと」
十湖はなんとか応えようとするが、名前が思い出せない。
「今朝の列車で来たんですかい。それなら憶えているはずだ」
車夫はぴしゃりと言い張る。
「そうだった。今朝だ。今朝三郎だ」
十湖は思い出したことが嬉しくて大笑いして手を叩いた。
「豊里の鷹野今朝三郎様ですか。村でも一番立派なお邸です。よしわかりました」
だが道のりは十里以上はあるようだ。車夫が馬に鞭を入れると一頭立ての馬車は土煙をあげて走り出した。
「旦那、昼間からそんなに酒に酔ってると追い返されちまいますぜ。川の水でもかぶって酔いを醒ましたほうがいいんじゃないですか。」
車夫は気を遣って十湖に声をかけた。
馬車が動き出すと十湖は懐から飲み残しの酒を取り出し、ぐびぐびと飲み始めた。
それが空けば、鞄から新しい洋酒の瓶を取り出し、着くまで舐めている。
松原湖畔が見えてくる頃には、既に鼾を掻いて寝てしまっていた。
六月だというのに湖畔に吹く風は爽やかで、十湖が寝入るのは無理もなかった。
この地方では梅雨はあまり関係がないようだ。
「旦那、そろそろ着きますので起きて下さい」
車夫は車の両輪の音に負けないような大きな声をかけた。
「着いたか」
十湖は、寝入りばなだったようで眼は虚ろだ。
「正面に門のある邸がそうです。この地方の資産家ですから、失礼のないようにお訪ねになるほうが・・・旦那まだ酔っているんですかい」
車夫の気使いはなかなかである。
「馬車をこの辺に待たせておきますから、用が済んだら合図してください」
十湖はひとまず旅行鞄は馬車の中に置いて、一人歩いて鷹野邸の門に向かう。
なかなか立派な門構えである。
十湖の住む中善地の村にはこんなでかい家はない。
門をくぐって庭に入り声をかけた。
中から面高だが気品のある表情をした婦人がニコニコしながら出てきた。
「遠州浜松から来た松島十湖です。ご主人にお会いしたい」
十湖は酒に酔っているのを悟られぬよう、毅然とした態度で訪問の理由を述べ面会を求めた
「遠いところをわざわざお越しいただき、あいにくですが主人今朝三郎は不在でございます」
丁重に婦人は挨拶をした。そのうえで一言添えた。
「たとえどんな御用でも、酒に酔って訪ねて来るなど言語道断です。主人には訪ねてきたことを伝えますので、本日はお引き取りください」
あの気品のある婦人の口から出た言葉とは思えないほど厳しい叱責だった。
十湖は一気に血の気が失せ、酔いが醒めていくようだった。
肩を落として馬車に戻る。
「旦那、言ったとおりでしょう。まあ仕方がないや、今度はゆっくり寝ていって下さい」
車夫に慰められはしたが、さて今晩はこのまま帰庵できるはずもなし、車上で思案に暮れる十湖であった。
懐から酒瓶を取り出し残りの酒を一気に飲み干した。
馬車は再び元来た方向へ走り去って行った。
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