鷹野つぎの養女時代余話(11)
昭和十一年東京の市立サナトリウムの病室では、鷹野弥三郎が妻つぎを見舞いし、お互いの過去の出来事を紡いでいた。
「僕は君に出会う前は義父のところによく足を運んでいたが、そのたびに君との出会いが何度となくあったね」
弥三郎は、つぎの顔色を見ながら話しだした。
つぎは未だに鷹野との出会いが結婚に結び付くとは思っていなかったらしい。
結婚に至るその年、弥三郎は最後の取材で十湖宅を訪問することになっていた。
「最初から俳諧の手法を訊ねようと意図しながらの訪問だったが、義父には見抜かれてしまい、挙句に四、五日も庵に滞在してしまったよ。おかげで句会にまで顔をだすことができたのさ」
「私は俳句のことは知らなかったし興味がなかったわ。でもあなたにとっては貴重な体験だったのね」
再び弥三郎は当時の模様を反芻していた。
新朝報なる新聞に連日三回執筆してきた鷹野は、その一節に「十湖をして平凡なる眼より見るときはさほど孝者たり、忠者たりと思わず、されど十湖はりっぱなる孝子にしてまた忠義の国民なり、その勤王心厚く我がままにして真心一途の忠義を貫き曲げない人物である」と評した。
このとき、出版社からの依頼は「社会の風潮は日々文明を取り入れて物質的実利主義へと移り変わっていく中にあって元禄時代から続く趣味の延長上の平民文学ともいえる俳句の世界に正岡子規らによる新派集団が生まれたという今日、彼らの蕉風いわゆる月並み派を排斥しようとする動きが起こったにもかかわらず、今日でもひとり純趣味の月並みを持続して少しでも動揺することなく、平然として古人の遺作を脱せざる純月並みの俳人たちがいるので取材せよ」とのことだった。その対象者の中に十湖の名があった。
草庵にも桜が散り始め、代わって牡丹の花が咲き誇っている。
草庵を通りかかる百姓たちが、挨拶がてら垣根越しに邸内を覗き込み、
「珍しいのう、十湖様が家の中の片づけをしているなんて、こりゃ午後は雨ずら」
「こりゃ早くに用を足さんといかんのお。草取りは時間がかかりゃ」
とニヤニヤしながら冷やかし半分で話していく。
十湖は開け放した邸内で揮毫用の筆を洗ったり、散らかった半切の書を机の片隅に畳んで整理している。自慢の白髭をなびかせ、下がりかけた丸いめがねをあげながらせっせと手が動いていく。時折考え事でもしているのか呆然と立ち止まり作業の手が止まった。
妻佐乃は廊下で雑巾の水を絞っているが、十湖の仕草を気にかけていた。しかも不断なら弟子達の声でにぎわっている草庵なのだが、この日は春の温かい日差しが差し込みながらも人影が無い。
皆で服織神社を通り天竜川河畔まで吟行しているようだ。十湖は朝の陽が玄関の上に差し掛かった頃、着替えを始めた。紋付に前袴を穿いて、白足袋に変えた。
もうじき、養女つぎが長男を抱いて来るはずだった。
身支度を終えた十湖の動きもしだいに忙しなくなってきた。十湖は先日、つぎ宛に手紙で草庵の様子を書き記し道順を案内しておいた。豊橋から来るつぎにとって子連れでは遠い道のりに違いないが、今日は穏やかな天気になってよかったと十湖は天に感謝した。
つぎの結婚相手鷹野弥三郎は、明治三十九年十湖との縁で長野佐久新報をやめ、遠江新聞の記者となり浜松へ移り住んだ。
翌年、新聞社で「十湖伝」を編集することになり、その編集主任に抜擢され十湖の取材でよく中善地の大蕪庵を訪れていた。
文学好きの好青年でこのとき二十八歳、市内で文学同好会を作り活動もしていた。
一方、つぎは少女時代から読書が好きで、兄から薦められた雑誌「少年」を愛読し、文芸雑誌にも傾倒していた。つぎがこの同好会に入ったのをきっかけに記者の鷹野弥三郎と出会った。
弥三郎は身長百七十一センチの当時としては珍しく長身でしかも好男子、住んでいたところも同じ町内であった。
やがてふたりの交際が深まり両親に結婚を申し出るが、つぎの父親岸弥助の猛反対を受け弥三郎とともに家出同然浜松を去った、明治四十二年、岸つぎ二十歳のときである。
その後も父親の反対行動は留まる兆し無かった。
弥三郎は困り果て、しかたなく十湖に相談をかけた。結局、十湖の養女とすることで入籍をすることができたのである。
明治四十三年弥三郎が名古屋新聞豊橋支局長になったため、豊橋に移り住み、翌年には長男誕生を迎えることになった。
十湖は弥三郎が取材で家へたずねてきたときに結婚までの一連の経過を聞いており、この年の暮れには長野の弥三郎の父親にさりげなく縁談のことを手紙で伝えていたのだった。あとはつぎの両親の理解だけである。
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