十湖外伝 雨後蝉(4) 歌人河合象子の生涯
翌年、庫太郎が待ちに待った帰朝の前日である。
日銀ロンドン支店に於いて送別会が開かれている会場に一人の若い男性行員が飛び込んできた。
「庫太郎さんにご自宅から電報です」
渡された電報を読んだ庫太郎の顔が色を失くし、天井を仰いだ。
会場内は一瞬静寂に包まれた。
「お別れの挨拶中にすみません。大切な伯母が昨夜亡くなったとの知らせでした」
そう云って庫太郎は次の言葉が出なかった。
「君にはいろいろ世話になった。心からお悔やみを申し上げる。本日の挨拶はここまでにして、急いで帰朝の準備をしたまえ」
上司は居並ぶ行員を前に機転を利かせて帰るよう説得した。
庫太郎には母親同然の人の死に、じっとしていられない衝動に駆られていた。
翌日、同僚への別れのことばもそこそこにロンドン支店を去る。
帰朝して引佐気賀の自宅にたどり着いた時は電報から既に一ヶ月を経過していた。
会葬者のいない仏間で家族らから生前の様子を伺いつつ墓参りも済ませた。
懐かしい伯母の身辺の品を手に取り、涙無くして見ることはできなかった。
大学まで卒業させてもらい就職できたのは、伯母の苦労なしでは達せなかったことだった。
滞在数日にして日銀本店からの連絡で庫太郎は現実に呼び戻された。
本店での業務を再開することになっていた。
入行して以来すでに十年の歳月が流れており中堅行員としての責務は重大な局面に至っていた。
二年前に日本へ帰って以来ロンドンでの活躍が認められて、日銀の最新知識を持ちうる行員として評価されていたのだ。
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