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2026年2月13日 (金)

十湖外伝 雨後蝉(3) 歌人河合象子の生涯

 明治四十一年(一九〇八)七十四歳になった象子は東京を離れ庫太郎の邸に寄寓していた。
土塀で囲まれた屋敷は季節の花が咲き誇り、好きな和歌がいつでも詠める。
つくづく東京を離れてよかったと年相応の安ど感が心を巡っていた。
同年七月二十三日そろそろ梅雨が明けるかと縁側の硝子戸越しにそぼ降る雨を見つめていると、鈴木家の孫娘が大きな声を上げて廊下を走ってくる。
「伯母さま、お手紙です」
「まあ、そんな大きな声で言わなくても聞こえていますよ」
振り向くと孫は封筒を手で振ってみせた。
「庫太郎叔父様から国際便よ、早く読んでみてくださいな」
象子のもとに庫太郎から国際便の手紙が届いたのだ。
 東京にいたころは、手紙が届いたことはない。同居同然だったし、お互い多忙で顔を合わせることが少ない毎日だった。だがこの日の手紙は国際便の横書きの封筒で初めて目にした。
「おやまあ、これは英語かしら。私にはわからないわ」
象子は驚いた様子でニコニコしながら手紙を眺めていると、側か
ら孫娘が読んであげるといって開封し始めた。中は日本語で書き綴られていた。
「庫太郎から象子さまへ お誕生日おめでとう。お元気でお過ごしですか。私がいなくてきっと寂しい思いをしてなさることでしょうね。ロンドンの仕事も大きな山場を越え、こちらの残務処理を終えたら一旦帰朝する予定です」
 孫がペンで書かれた字をたどたどしく読み進むうち
「帰朝ですって、何年振りかしら庫太郎の顔を見るのは」
 象子の顔が紅潮し笑みが毀れた。
雨が止み庭の樹木の葉からは雫が滴り落ちると、雨音に代わって蝉の声が降ってきた。

 

 

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Ikousyo10_20260204155301                       (象子の屋敷)

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