十湖外伝 雨後蝉(10)歌人河合象子の生涯
嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ艦隊の浦賀への来航は、鎖国体制下の我が国に大きな衝撃を与えた。
吉田藩では異国船退散を祈願するため領地内の惣代らを伊勢神宮に派遣し、足軽・中間を江戸に派遣するなど、これまでにはない騒々しい動きがあった。
それから五年後の安政五年(一八五八)幕府は通商条約を結び、神奈川・長崎・箱館などを開港した。
井伊直弼大老による安政の大獄などの政治的混乱、外国貿易による経済的混乱のなかで、吉田藩は田原藩との境、百々(どうどう)村中郷(渥美郡田原町)に防塁を築いて大砲をすえ、外国船の襲来に備えた。
砲術指南役だった父熊之進もこの頃は忙しい毎日が続く。
しかし、田鶴が元気になり家の中が明るくなったことで父も城中での仕事に張り合いができた。
それに田鶴の将来のために武士の娘としての所作、教養を体得させようといしとともに田鶴を教育した。
二人は田鶴が生まれつき勉学に対し理解と呑み込みが早く、向上心が上がっていくのを快く思った。
そのことは和歌つくりにも反映し二十歳の頃には大人顔負けの和歌を詠んでいた。
熊之進は筋がいいと娘の成長ぶりを城中でも自慢していたのである。
いしは年頃となった田鶴の嫁ぎ先のことで頭が痛いが、田鶴が常に朗らかで家事一切を手伝ってくれ自分も助かっているためか、なかなか本人に言い出せないでいる。
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