十湖外伝 雨後蝉(11)歌人河合象子の生涯
最期の藩主松平信古は、動乱期の幕政の一翼を担い朝廷と幕藩体制を何とか維持しようとする幕府のはざまにあって、悩み多い日々を大坂で過ごしていた。
いずれ熊之進には大役が来るのではと日々神経を研ぎ澄ましていた矢先、体調に異変を感じた。
登城する日なのにいつまでたっても起きてこないのを不審に思ったいしは、寝所で既にこと切れている熊之進を発見した。
二十五歳になった田鶴にとって、あまりにも突然の悲しい別れであった。
安政六年(一八五九)熊之進の弔いを済ますと、祖母は山中家の親戚筋が看ることになり、田鶴らはいしの実家である気賀の里へ戻ることを余儀なくされた。
浜名湖北岸に位置する気賀は、田鶴には初めて訪れる地である。吉田を出て姫街道を湖岸沿いに気賀の町へと辿り着いた。
「お母さま、町は商人で活気がありますね」
関所を無事通過し気賀の宿の中心にやってきた田鶴は、興奮気味に母に云った。
「そうですか。母の生まれ故郷は田鶴が初めて見る光景ですね」
母の実家の本陣は、幕府が気賀に設置した本坂通り(通称姫街道)の宿場の中心にある。
町の南端には気賀の関所がおかれ、地頭の気賀近藤氏が関所を管理している。
東海道と比べればかなり遠回りであるため賑やかさも華やかさもない。しかも宿場も少ない。旅人の往来も格段に少ないし、関所を通るものは地元の人が多く交流が主になる。ゆえに関所の取り調べも緩やかだと言われていた。
もともと本陣は大将が陣を構えるところであり、その宿泊場所のことでもある。
だが太平の世になって戦乱がなくなれば武士の街道の行き来のための宿泊施設でしかない。
本陣の客は大体が常泊としているので、なじみの顔ぶれである。
だから客の好みを知っており、その時の献立も控えているので次に来るときは至って気持ちよく泊まることができた。
田鶴親子が今後起臥する実家は遠州引佐気賀の本陣であり、主は代々与太夫を名乗って地元の協力を得て宿を運営している。
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