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2025年1月17日 (金)
2022年10月12日 (水)
二宮神社創建の経緯と十湖の関わり
現在、二宮尊徳翁を祀った報徳二宮神社が全国に2箇所ある。
そのひとつに小田原市、ふたつめは栃木県日光今市市の今市報徳二宮神社である。
十湖宗匠の事業実績を辿ってみるとこの二宮神社の創建にも関係していたことを知った。
今回は一体どのように十湖は関係していたのか、少し歴史を紐解いてみようと思う。
まず二宮尊徳について、理解を深めたい。
「二宮尊徳は江戸時代後期の農政家。書物を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎の像で知られる。天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に生まれた。酒匂川の氾濫で田畑が流されて家は没落、両親は過労で亡くなり、兄弟は別々に親戚に預けられた。
尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に預けられ、そこで農作業に従事するかたわら勉学に励んだ。そして荒れ地を開墾し、そこに田植え後捨てられている余った苗を植えて収穫を上げ、貯めたお金で田畑を少しずつ買い戻すと、それを小作に出すなどして収入を増加させ、24歳で実家を再興した。
その後、小田原藩家老・服部家の財政立て直しに成功すると、その能力を見込まれて下野国桜町領(小田原藩主・大久保家の分家である宇津家の領地)の立て直しを依頼され、さらに真岡代官領の経営にも成果を上げる。その手法は報徳仕法と呼ばれ、600ヶ所以上で藩の財政再建や農村の復興などが行われた。
嘉永6年(1853)幕府の命により日光神領での仕法にとりかかる。安政3年(1856)今市(現在の日光市今市)の報徳役所にて没する。」
以上が報徳社関連ページでの引用だが、尊徳を理解するうえでは大変にわかりやすい。
十湖はこの尊徳の教えを広めてきた。とくに顕著だったのは十湖が郡長時代に引佐の農業を振興するために報徳の教えを地域に広めて数々の事業を展開した。
明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。そうした中でもいち早く各地の総代、相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと国に対し請願をした。同年10月のことである。運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年11月には許可が出た。
ところが各地の報徳社員は、この案では地理が不便であってよろしくない。しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。その先鋒が中善地の松島吉平こと松島十湖そのものだった。
今度は自らが7カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、明治25年3月今市と小田原の2箇所に神社を建立しようと決定した。しかし既に櫻町への創建が許可されているためこの指令を取り消す必要に迫られた。
明治25年8月15日十湖は報徳社員1万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。時の内務大臣は品川弥二郎辞任間直の接見であった。このとき併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。各地の総代とともに岡田社長の筆頭名で出願し直ちに許可を得たのである。
明治30年11月14日、懸案だった今市の報徳二宮神社が落成、鎮座式が行われる。鎮座式に臨んで十湖は「大御代の光りぞ今日の宮遷し」と句を認めた。
落成式終了後、十湖は宮司の関根友三郎宅に宿泊し夜を徹して二宮翁を語り合った。十湖は短冊に一句を認め差し出したところ、それを読んだ関根氏はいたく感激し、あらためて句碑の建立を要請した。無上の光栄と感涙した十湖は
「明安し我も一夜の御墓守」
と大書してして奉納した。これが本殿裏の御墓所前に立つ句碑だというが現在もあるだろうか、さだかではない。
一方、小田原の報徳二宮神社の由緒をみると「明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。」とある。こうして、どちらも彼等社員の尽力によって現在も二宮神社が存在するのである。
のちに明治43年、新聞記者鷹野弥三郎は当時「奇人・変人」として世間で呼ばれていた俳人十湖の自伝を編集するため東奔西走していたところ、十湖が二宮尊徳の偉業をたたえるためこの神社創建にかかわったことを知った。
鷹野によれば明治五年、十湖は福山瀧助指導により遠譲社を有志者と設立し、自らが中善地村の社長となって報徳社の教えを広めた。明治15年引佐麁玉郡長時代には引佐の農業を振興するため三遠農学社を設立、自ら主幹に就任し二宮尊徳の精神を根本にして勤勉貯蓄を図り教えを広めた。さらに報徳社を各地に設立し、いっそう二宮の功績に感動し、尊敬し、十湖としては神として祀りたいと運動をはじめたのは必然であった。そしてその運動は開花し今市、小田原の2箇所に神社が創建される結果となったというのである。
ただ、社内では十湖と会長岡田良一郎との間にごたごたがあり、十湖側からは岡田がその功績を独り占めにしようと謀っていたのを頑として食い止めたというが、その事実はいかがなものか。
鷹野は取材の中で「この時代、十湖が俳人として名声が高いことはだれもが知るところであるが、十湖は言行一致の人物であり、いわゆる豪き性格は俳句だけでなく多くのことに認めざるを得ない」と。
以後、報徳の運動は留まるところを知らず遠江100余社、三重愛知両県に20余社の報徳社を設けた。まさにこれこそ十湖の実績であった。
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2022年8月13日 (土)
2020年12月10日 (木)
高野山紀行(9) 第446回
極楽橋は、明治時代には不動橋・板橋とも呼ばれて、橋のたもとには銅像(現在は石造)の地蔵尊が祀られている。
橋の向こう側には「極楽茶屋」と呼ばれる茶亭があり、旅姿の男女が休んでいた。
十湖一行は宿泊場所を極楽橋付近にとると、極楽橋を渡り不動坂を歩いて高野山まで向かった。およそ二キロ半ほどの道のりであった。
その夜、月を見ながら十湖はいくつもの句を詠んでいる。
橋越すや空に真如の夏の月
山の上の都に聞くや時鳥
時鳥我も拾わず落とし文
数日ここで滞在し、伊勢へと向かうことになる。
初期の目的であった高野山への参詣を終え、六月十五日予定どおり帰庵するも、黄鶴は以後十湖の前に顔を出すことはなかった。
一行の中では門人として中堅の立場なのだが、自ら画人としての道を進むべく去っていった。
大正十五年には経営していた瀬戸物店を廃業し、以後の生き方はさらに波乱万丈に富み、短歌を詠み画家の鈴木三朝との交友が始まり、地域の画家としての地位もしだいに固まっていく。
一方、十湖の側は同行した鈴木卓曙、松陰が中心になり、大蕪庵を守り立てていくことになる。
十湖の旅も今回の高野山紀行が最後になるとは誰も思ってはいなかった。
(完)
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2020年12月 9日 (水)
高野山紀行(8) 第445回
吉野口を過ぎ、まもなく高野山への入口、高野口駅へ着く。
やっと、かねてより期待していた高野山にたどり着いたのだ。まさか七十七歳にしてくるとは十湖自身でもおかしかった。
いつでも来ることができたはずなのだが、過去を振返ってみるとなぜかその時間が見当たらなかったようだ。
今さら後悔したところでなんになろう。
高野山の空気に触れ、十湖は自らの人生にそろそろ幕引きの時が来たのかなと妙な心地になり大きなため息をついた。
高野山は、平安時代の頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗である。
比叡山と並び日本仏教における聖地であり、現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。
一行は高野山の境内を参詣して後、地元門人らの紹介で今晩の宿泊地である極楽橋方面へ向かった。
今では極楽橋駅があり、下車するとケーブル駅となっているが、十湖一行が訪ねた時代はその駅を作っている最中であった。
(当時の駅前旅館)
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2020年12月 6日 (日)
高野山紀行(7) 第444回
翌日は案内役一人を連れに加え、関西線に乗り込み紀州和歌山へと向かう。
伊賀の柘植駅付近は旧伊賀街道とその宿場街が残っており、車窓には田園風景が広がっている。
窓を開けると田植えが済んだ田園から颯爽とした初夏の風を運んでくる。
芭蕉が生まれた地でもあり十湖ら一行には感慨深い。
「いい天気になりましたね。これなら秀逸な句が生まれそうな気配ですよ」
口をつぐんだまま外を眺めている卓曙に向かって黄鶴は声をかけた。
「そうだなあ。それより少し腹が減ったぞ」
卓曙は句作りのことより食い気の方が気になっている。
駅で買った柿の葉すしの包みを解き昼食とした。
鯖を柿の葉で包み、押しをかけた鮨で柿の葉を剥がして食べた。
柿の葉は食べないが随分と葉がやわらかい。
産地によっては、塩漬けにするところもあるがここのは違った。
酢の匂いが心地よい。脂ののった鯖のまったりとした旨みがあった。
暫く汽車は駅に留まり、反対車線の汽車が来るのを待つ。
心して聞かうよ伊賀の田植え唄
そのうちに発句も交わらん田植え唄
などと十湖が詠んでいるうちに一行の腹が寿司で満たされたのか、向かい側の座席からいびきが聞こえてくる。
友五人汽車の昼寝もまたおかし
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2020年11月28日 (土)
高野山紀行(4) 第441回
十湖は黄鶴に俳句関係の印刷を廻してやった。
そうすれば俳句から遠避かることもないだろうとの配慮である。
ゆえに俳句の方にも力を入れることになり、翌年二月には春雄、随処らととともに市内の北浜館で早春風雅会を開くに至った。
結果は盛況であった。
その上、黄鶴への心遣いが、弟子を大切にすると評価され、奇人にして人に優しいと、十湖の名声を一段と高くすることになった。
新愛知新聞の編集局長が、十湖のことを連載で掲載したいと訪ねてきたこともあった。
四月二十日には黄鶴が発起人となり、不動寺境内に十湖の句碑を建立した。
果樹園経営していたころに不動寺へ世話をかけてきたことと、十湖への黄鶴からの償いであった。
山の月心も高う眺めけり
既に芭蕉の句碑は弘化二年に地域の俳人たちによって建立されていたが、そのそばに十湖の碑が添う様に建てられた。
除幕式には十湖自身が出席しご満悦で黄鶴の望みどおりの結果となった。
だが店を切り盛りしていた妻が、病気で入院したとたん、瀬戸物店の客が減少し始めた。
仕事がうまくいかなくなると、身辺では疎んじられる。
「俺は何をやってもうまくいかない」
黄鶴は自らを責めた。
(不動寺山門)
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2019年2月12日 (火)
十湖池ふたたび
2月9日付けの中日新聞夕刊「この地に名あり」の連載記事で、浜松市東区の十湖池(じゅっこいけ)が紹介されていた。
地元の生んだ俳人松島十湖に関連したことで、報道され広く知られるようになるのは嬉しいことである。
記事は十湖池の由来から現在の池の保存運動を、わかりやすく紹介していて興味深いものだ。
特に、記事中のカットの画に着目した。
画は明治時代に作られた銅版画の一部で、もともとは十湖の住まいする邸の周辺を表したものだ。
よく見ると右端の隅に、女性が洗濯しているのを見て取れる。
当時の池が、現在のビオトープとは比較ならないほど、広いことが想像できる。
子供たちにも、このことを理解していただくには、もってこいの資料となったようだ。
(中日新聞夕刊2/9)
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2017年1月11日 (水)
「直虎」応援だるま市
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2017年1月 7日 (土)
2017 笠井だるま市
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より以前の記事一覧
- 笠井観音 だるま市 2015.01.01
- 十湖銅像創建 2013.11.29
- 花まつりはお釈迦様の誕生日 2012.04.08
- 平口不動寺花まつりと万葉花もち 2012.04.01
- 不動寺花まつり開催されます 2012.03.25
- 春風もふき渡るなり橋新た・・・豊田橋を詠む 2012.02.24
- 宝林寺と友月 2011.11.29
その他のカテゴリー
0序(開設者あいさつ) 10尊徳の遺品 11昆虫翁 12東北漫遊 13二俣騒動 14活命料 15息子の戦死 16姨捨紀行 17芭蕉忌 18養女つぎ 19出雲の風 1追憶・鷹野つぎ 20二人の貧乏神 21盟友 22十湖の事件帳 23俳人の礼 24鳴門の旧知 25 再会 26芭蕉の道 2吉平直訴 3雷大江 4戸長の重責 5議員活動 6管鮑の交わり 7郡長異彩 8曲り松の別れ 9郡長その後 おすすめサイト お知らせ くろもじの花 タイトルバーナー(画) 中村藤吉 佐藤垢石 十湖と架空対談 十湖の備忘録 十湖交友録めも 十湖外伝 雨後蝉(歌人河合象子の生涯) 十湖奇行逸話 取材余話 句碑めぐり 名和 靖 四国の旧知 報徳 大木随處 大火 富田久三郎 明治の化学者の若き日々 尊徳の遺品顛末記 小中村清矩 小栗風葉 徳川家康 旅行・地域 書籍・雑誌 正岡子規と十湖 河合象子 烏帽子園蓮台 真筆・十湖の句と風景 石倉翠葉 鈴木藤三郎 鈴木黄鶴 青木香葩(こうは)