二宮神社創建の経緯と十湖の関わり
現在、二宮尊徳翁を祀った報徳二宮神社が全国に2箇所ある。
そのひとつに小田原市、ふたつめは栃木県日光今市市の今市報徳二宮神社である。
十湖宗匠の事業実績を辿ってみるとこの二宮神社の創建にも関係していたことを知った。
今回は一体どのように十湖は関係していたのか、少し歴史を紐解いてみようと思う。
まず二宮尊徳について、理解を深めたい。
「二宮尊徳は江戸時代後期の農政家。書物を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎の像で知られる。天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に生まれた。酒匂川の氾濫で田畑が流されて家は没落、両親は過労で亡くなり、兄弟は別々に親戚に預けられた。
尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に預けられ、そこで農作業に従事するかたわら勉学に励んだ。そして荒れ地を開墾し、そこに田植え後捨てられている余った苗を植えて収穫を上げ、貯めたお金で田畑を少しずつ買い戻すと、それを小作に出すなどして収入を増加させ、24歳で実家を再興した。
その後、小田原藩家老・服部家の財政立て直しに成功すると、その能力を見込まれて下野国桜町領(小田原藩主・大久保家の分家である宇津家の領地)の立て直しを依頼され、さらに真岡代官領の経営にも成果を上げる。その手法は報徳仕法と呼ばれ、600ヶ所以上で藩の財政再建や農村の復興などが行われた。
嘉永6年(1853)幕府の命により日光神領での仕法にとりかかる。安政3年(1856)今市(現在の日光市今市)の報徳役所にて没する。」
以上が報徳社関連ページでの引用だが、尊徳を理解するうえでは大変にわかりやすい。
十湖はこの尊徳の教えを広めてきた。とくに顕著だったのは十湖が郡長時代に引佐の農業を振興するために報徳の教えを地域に広めて数々の事業を展開した。
明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。そうした中でもいち早く各地の総代、相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと国に対し請願をした。同年10月のことである。運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年11月には許可が出た。
ところが各地の報徳社員は、この案では地理が不便であってよろしくない。しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。その先鋒が中善地の松島吉平こと松島十湖そのものだった。
今度は自らが7カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、明治25年3月今市と小田原の2箇所に神社を建立しようと決定した。しかし既に櫻町への創建が許可されているためこの指令を取り消す必要に迫られた。
明治25年8月15日十湖は報徳社員1万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。時の内務大臣は品川弥二郎辞任間直の接見であった。このとき併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。各地の総代とともに岡田社長の筆頭名で出願し直ちに許可を得たのである。
明治30年11月14日、懸案だった今市の報徳二宮神社が落成、鎮座式が行われる。鎮座式に臨んで十湖は「大御代の光りぞ今日の宮遷し」と句を認めた。
落成式終了後、十湖は宮司の関根友三郎宅に宿泊し夜を徹して二宮翁を語り合った。十湖は短冊に一句を認め差し出したところ、それを読んだ関根氏はいたく感激し、あらためて句碑の建立を要請した。無上の光栄と感涙した十湖は
「明安し我も一夜の御墓守」
と大書してして奉納した。これが本殿裏の御墓所前に立つ句碑だというが現在もあるだろうか、さだかではない。
一方、小田原の報徳二宮神社の由緒をみると「明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。」とある。こうして、どちらも彼等社員の尽力によって現在も二宮神社が存在するのである。
のちに明治43年、新聞記者鷹野弥三郎は当時「奇人・変人」として世間で呼ばれていた俳人十湖の自伝を編集するため東奔西走していたところ、十湖が二宮尊徳の偉業をたたえるためこの神社創建にかかわったことを知った。
鷹野によれば明治五年、十湖は福山瀧助指導により遠譲社を有志者と設立し、自らが中善地村の社長となって報徳社の教えを広めた。明治15年引佐麁玉郡長時代には引佐の農業を振興するため三遠農学社を設立、自ら主幹に就任し二宮尊徳の精神を根本にして勤勉貯蓄を図り教えを広めた。さらに報徳社を各地に設立し、いっそう二宮の功績に感動し、尊敬し、十湖としては神として祀りたいと運動をはじめたのは必然であった。そしてその運動は開花し今市、小田原の2箇所に神社が創建される結果となったというのである。
ただ、社内では十湖と会長岡田良一郎との間にごたごたがあり、十湖側からは岡田がその功績を独り占めにしようと謀っていたのを頑として食い止めたというが、その事実はいかがなものか。
鷹野は取材の中で「この時代、十湖が俳人として名声が高いことはだれもが知るところであるが、十湖は言行一致の人物であり、いわゆる豪き性格は俳句だけでなく多くのことに認めざるを得ない」と。
以後、報徳の運動は留まるところを知らず遠江100余社、三重愛知両県に20余社の報徳社を設けた。まさにこれこそ十湖の実績であった。
| 固定リンク | 0
| コメント (0)
| トラックバック (0)