日記・コラム・つぶやき

2022年9月30日 (金)

俳人十湖讃歌 第54回 郡長異彩(12)

 明治十八年四月、またしても連日にわたる降雨のために天竜川が危険に瀕した。
  吉平の近郊倉中瀬村弁天というところでは数十間の堤が激流により崩壊寸前だったが、沿岸の村人が必死になって堤防を守り大事には至らなかった。
  三月後のこの日は雨の余勢が一段と強く、とうとう河水が氾濫するに至った。
 村民たちは防災で既に疲弊しており、氾濫後は集中力もなく、もはや成す術がなかった。
 古老の一人が
「もう万事休すじゃ。吉平郡長に知らせ、助けてもらわまいか」
 と村民から若い男を選び、馬車をとばして気賀村在任の吉平のもとに急を告げさせた。
「吉平郡長様、天竜川の氾濫で村は壊滅的です。どうか一緒に来てもらえませんか」
「わしは郡長の公職にあるゆえ軽思の行動はできぬ」
 と吉平はいったんは思いとどまったが、危難の甚大なるを知って傍観しがたく、直ちに郡長辞職書を作成し机の引き出しに入れ置いた。
 村民の用意した馬車に乗り込み帰村すると、使いを村中のみならず遠近に走らせ、有志、人夫合わせて三百人を集め、自ら叱咤督励した。
 その結果、五日間で水防を完成させ、西河岸五十余村の田畑を救い多数の人心を安堵させることができたのである。
 道理からいえば、公職にある身が独断で他郡に出張するなど非常識ではあるが、吉平の報徳精神よりすれば、自らの責務の軽重を識別していたというほかなかった。
 この事態に書記の河野は郡長に事故のないことを一心に祈っていたことは云うまでもなかった。
 これは一例にすぎないが、独断で河水を防いだときは人夫費四十円を自費であてがい、当時のこの金高は郡長の一ヶ月俸給にも値していた。
 総じて吉平の仕方は郡長時代の事業においても軽きを抑え、重を進めた。
 冗費奢侈を極度に抑え、公的な施設改良には出費を惜しまなかったのである。
 一方、公務の傍らでも俳諧の道の研鑽を忘れることはなかった。
 郡長就任地の気賀村では俳句の結社西遠吟社を興し、月一回の例会を開き集まるものは毎回数十人であった。
 句作のうちにも報徳精神が強く流れていたようだった。
 こうして、常に激務の中を突き進んできた吉平郡長だったが、風流の道は怠らなかった。
 吉平は県吏として静岡に在職中は「静岡吟社」という俳句団体をつくったが、引佐へ郡長として来てからは「西遠吟社」をつくり公務の傍ら、行った先々で祝辞の後などは俳句を詠み、筆をとっては残してきたのである。
 この俳諧西遠吟社は地域文化の高揚にも貢献し農業振興とも重なり、住民不在の行政から住民主体の行政への足がかりとなった。

 

(当時の天竜川の網漁)
Tenryu_2

 

 


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2013年1月 1日 (火)

門松のこと

 新年明けましておめでとうございます
 本年も変わらず当ブログへのお立ち寄りお願い申し上げます
 さて、最近では正月に門松を立てることは少なくなった。めだっているのは公共施設か神社仏閣などである。
 門松を正月に立てるという風習の起こりは年新まり歳神が家に降りてきて貰うための目印として始まったという。
 だが一方で「正月に門松を立てることは死へと近づいていく。死出の旅の始まり」だと仏教用語では教えている。
 一休禅師はシャレコウベを掲げて、
  「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
と歌い、正月だからといって只只浮かれている人々に警鐘を与えた。
 大正五年一月三日付け俳人十湖の随筆にも、門松の事に触れている。
「門松は冥土の旅の云々と昔の人は言ったが、可笑しいけれど修証義に生死を極るか我師一大覚悟を示さるため米櫃ならぬ白木の箱(棺桶)を用意して松竹梅で飾り、凡夫よき教訓だと」十湖の弟子が記した。
 十湖は門松の入った棺桶を背後に置いて年賀の客をもてなした。参会者の驚きは言うまでもない。
  棺桶をうしろにうける御慶かな    
 正月だといって浮かれていても、十湖宗匠にはいつもと全く変わらない今日一日ではある。010389s_2   

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