取材余話

2017年1月23日 (月)

十湖と井伊家

   今、浜松は大河ドラマ「おんな城主 直虎」で熱い。
 観光、新商品、歴史の発掘、文化の育成など毎日の新聞紙面を飾り、テレビ、ラジオでもこの名を聞かない日はない。
 最近になって「直虎」は女ではなく男だという新たに発掘された古文書が証し、一躍「直虎」のムードを高め井伊家に関心が寄せられている。
 だが井伊家に関しては、明治時代すでにそのことを著している人物がいた。
 俳人松島十湖である。
 浜松市史によれば「自費で『引佐麁玉有功者列伝』を著して地域のために尽した人の伝記の集成をしている。」とある。
 明治14年に引佐麁玉郡長を拝命し、5年間の郡長時代を経過したあと非職後3か年は郡長相当の待遇を受ける。明治21年その間の俸給をもって、かつて著した「引佐麁玉両郡有効者列伝」の後編を出版したのである。
 この書は書名のとおり2郡の地域にとって貢献した人物伝であり、明治21年4月四六版2百余頁で編纂され、目次のトップが「井伊家紀伝」であった。
 その内容は一條天皇寛弘七年に遡り平安中期 (1010)が井伊家の祖として今に伝わるものである。井伊家に関わるところは
「直親の子直政(二十三世)始めて二歳直盛の息女次郎法師(或云く婦人にして次郎法師と称すべからず必是誤りやと然れども古昔奇異の名多し臆説をもって古記を改むべからず今古記に従ふ)直政を擁立し代わりて事を執る。」
 編者(十湖)は最後に、攘夷開港二論の国難の狭間に立ち国の文明を開いたのは直弼の功であり、これをもって論ずれば直弼の先は引佐郡の人であり、ひいては引佐郡は文明開化の元ともいえようと続く。
 井伊家にまつわる明治21年の十湖による評価でもある。

(井伊谷風景)
Iinoya



 

 

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2014年6月22日 (日)

琉球藺草の振興に十湖も肩入れ

  先日の新聞(2014.6.3中日新聞)に「領民救ったイ草に思い 細江神社内で伝統の琉球藺 苗植え」という記事があった。
 浜松市北区細江町の細江神社内にある藺草(いぐさ)神社の総代六人が一日、同神社で琉球藺の苗を植える伝統行事を行ったというものだが、今でも後世に残す行事をしている地元の方にまずもって敬意を表したい。
 さて、このことに関連して俳人松島十湖宗匠が関わっていたことは案外知られていない。
 明治14年、引佐麁玉郡長として気賀の地を踏んだ松島吉平こと十湖は、藺草で青莚を作成した後残りくずが多数出るのに、これを利用せずに捨ててしまうことに心が痛んだ。
 あるとき藺草の廃物利用として養蚕用の網に利用したらどうかと思いつき、自ら制作し琉球養蚕網と名付た。
 明治16年2月引佐の地に結成した農業者団体である西遠農学社の名目で養蚕網の使用方法と題する印刷物を配布、地域はもちろん県外にも頒布したところ好評で次々と製作し販路を拡大していった。
 ただ説明書にはこの琉球藺草の養蚕網は天日にて干すことを禁じ、日陰で乾かせば数年を保つことができるとあった。
 まさに地域産業振興の要因になり、細江史に残る引佐麁玉郡長時代の功績の一つとなったというわけである。
Igusaami

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2014年6月 2日 (月)

イチョウの葉

 先日友人から、十湖らの書が大量に出てきたから見に来ないかと誘われた。
古い茶箱の中にぎっしり、まくり書や掛け軸が収められていた。
それらは書いたばかりのように墨の匂いこそないが、色褪せなく虫食いもない。
「きれいですね。よく現状を維持していましたね」
私が驚いて聞くと
「この中にはイチョウの葉が一杯散りばめられていて、やっと取り除いたところです」
友人は入っていたというイチョウの葉の束を見せてくれた。
書は明治時代のものであり、所有者が虫除け用に入れたものらしいという。
だが、入れられた当時は青葉だったのだろうか、それとも落ち葉の黄葉だったのか。
青葉であれば書に染みがつくはず?
帰宅後ネットで調べてみた。行政の歴史資料課のページにたどり着く。
このページでは、その理由を調べた結果が紹介されていた。
併せて参考に作家出久根達郎氏の著書「本のお口よごしですが」の引用が掲載されていた。
「本とイチョウの相関関係について深く研究しはじめた。程なくあっけなく氷解した。そうしないさいとすすめている書物を見つけたのである。書物保存法の通俗書で、虫よけにイチジク、イチョウの葉を用いよ、とある」
 ネットのページはさらに続けて「理論的に解明すべく府立大に照会したところ「イチョウの葉には防虫効果を有する成分シキミ酸があり、それが紙魚よけに役立っているかも知れないという情報ががあった」と記されていた。
 さて、イチョウの葉を入れることで本当に効果があったのか、茶箱の中の書は見事に虫食いはありません。防虫効果を思わせます。
かつて茶箱に保存していた所蔵者の方にとっては、先祖代々の代物を、大切に保管することが自らの使命として、イチョウの葉に託したのかもしれない。

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2013年8月23日 (金)

架空対談:十湖の「農」

聞き手
 前回は十湖宗匠の生き方を聞くことができた。
今回は農業について自己のご意見を聞く機会となった。

 十湖
 農は、是を、趣味的に観るものにありてはもっとも愉快なる職業なり。
それは大自然の懐に抱かれつつ最も自由にかつ最も真実に生活し得られればなり。
農は造化の直参にして、常に神とともに在り」とは農に従う者にのみ与えられたる得がたき幸のひとつなり。

聞き手
 なるほど専業農家にとっては常に神とともに在り、此処に幸せがあるということですね。

十湖
 そうだ。農は是を事業として観るときは最も偉大なる職業なり。
農は一切物資の給元にして農なくんば一切無し。真に農は天下の大本なり。
是農に従う者の最大の強みにして誇りなり。

聞き手
 農業を営むことはまさに偉大な職業であって、世の中に食料として供給する役割を担っていることこそ農業者の誇りになるわけですね

十湖
 更に云えば、農は一切のものを包容し、一切のものを生育する点において、人類の母たるの威あり。是農の最も大いなる徳なり。
田園の幸、土の徳、農の誇りは挙げて数得るべからず。
筆紙に尽くすべからず。
我この天職を尽くさば裡自ら道備わり、楽亦其の裡に溢る。
嗚呼農なるかな、農なるかな。

聞き手
・・・(感心して聞き入っている)
Daihai



十湖
地に人間の住まん限り農は生命活動の源泉にして最も自然に、かつ最も尊貴なる職業なり。
自由に、かつ真実に生きうるは我の幸福なり。
健全なる肉体と精神とを得て、我の義務を敢行するは忠となり。
孝となり、人類を養い国を益するは是社会に奉仕するゆえんなり。
農は我の本領にして、我の趣味なり

聞き手
今日は随分と熱く農業者の心得を説いていただいた。
宗匠は公職を離れて以来明治三十年代以降さまざまな冠が着けられた。
郷土の偉人という前に奇人、変人、変哲、貧中王、などと呼ばれていた。
だがこうしてご本人の口から生き方を窺うと、これら冠は少し意味が違っていたようだ。
むしろ愛称であり少しばかり十湖にやっかみでも云いたいという輩が着けたもの。
この頃既に宗匠として全国に名が知られ、門人が1万人と新聞でも豪語していた。
それは満更法螺ではなくて三遠農学社など報徳関連組織を全国につくり、俳句の指導をしていたことを考えるとありえた事だったと思う。
以上の資料は大正7年ごろ大日本報徳学報に寄稿していたものを、対談としてここに掲載した。

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2013年8月19日 (月)

鈴木藤三郎顕彰記念文化講演会盛況にて終了

 8月18日(日)森町文化会館にて鈴木藤三郎の顕彰百年を記念して開催された講演会は会場一杯の参加者で盛況であった。
予想以上の参加に隣席の方に理由を尋ねたところ、随分と宣伝していたし文化協会の動員もあったけどと前置きし、「皆さん藤三郎には関心が有りますから、それでも思った以上の人の入りだわ」と返ってきた。
 なるほど、町の偉人として町民の中に定着しつつあるのだとこちらは感心させられた。
出し物は基調講演とパネルディスカションいずれもそつなく進行し、始めて聞く藤三郎という人物を知ることができたことは有意義な時間であった。
 会場ロビーでの遺品の展示も貴重なものを拝見でき参加した価値が一段と上がったような気がした。主催者の皆様お疲れ様でした。未来の藤三郎の出現に期待したい。Mori




 

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2013年8月 9日 (金)

十湖の盟友鈴木藤三郎講演会開催迫る

 先日知り合いから森町の偉人鈴木藤三郎の講演会があると案内された。
日時は平成25年8月18日(日)午後1時30分から森町文化会館大ホールで行われる。
今年で藤三郎は没後百年を迎えるため地元森町では今回のイベントを企画したという。
さて、わが郷土の俳人十湖宗匠にとっては彼をどう思っていたのだろうか。
 両人による逸話も残っているが、衆議院議員までなった鈴木藤三郎を一目置いていたのではないかと思う。
 詳しい資料は持ち合わせていないので推測でしかないが、少なくとも財界人として報徳社への貢献度は、いつも金が無い十湖にとってはうらやましい限りではなかったか。
十湖が65歳になった大正2年9月4日のとき、盟友大日本製糖社長鈴木藤三郎は癌のため死去した。58歳という早い旅立ちであった。
 郷里森町で挙行された告別式では十湖も参列し、句を詠んで永眠を悼んだ。

  君一人逝いて天下の秋の暮

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2013年1月 1日 (火)

門松のこと

 新年明けましておめでとうございます
 本年も変わらず当ブログへのお立ち寄りお願い申し上げます
 さて、最近では正月に門松を立てることは少なくなった。めだっているのは公共施設か神社仏閣などである。
 門松を正月に立てるという風習の起こりは年新まり歳神が家に降りてきて貰うための目印として始まったという。
 だが一方で「正月に門松を立てることは死へと近づいていく。死出の旅の始まり」だと仏教用語では教えている。
 一休禅師はシャレコウベを掲げて、
  「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
と歌い、正月だからといって只只浮かれている人々に警鐘を与えた。
 大正五年一月三日付け俳人十湖の随筆にも、門松の事に触れている。
「門松は冥土の旅の云々と昔の人は言ったが、可笑しいけれど修証義に生死を極るか我師一大覚悟を示さるため米櫃ならぬ白木の箱(棺桶)を用意して松竹梅で飾り、凡夫よき教訓だと」十湖の弟子が記した。
 十湖は門松の入った棺桶を背後に置いて年賀の客をもてなした。参会者の驚きは言うまでもない。
  棺桶をうしろにうける御慶かな    
 正月だといって浮かれていても、十湖宗匠にはいつもと全く変わらない今日一日ではある。010389s_2   

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2012年12月31日 (月)

斜子織と家の光り

 明治38年9月遠州中善地の俳人松島十湖一行は、姨捨の月を見んと信州の瀨在欽采宅に逗留し、連歌をはじめ多くの作品や句碑を残してきた。
 その滞在記事は、当ブログの「姨捨紀行」に譲り、本稿では番外編的な取材余話を紹介したい。
 今の長野県千曲市姨捨付近に居を構えた瀬在欽采は十湖の門人であるとともに画才にも優れ、後世に多くの日本画を残したことで地域でも知られている。その邸に一行4人が転がり込んで俳諧三昧の生活を過ごしてきた。今の時代だったら随分と迷惑の話だが、時代のなせる業だった。
 四箇月ほどの滞在は地域の俳人との親交だけではなく、瀨在宅の人々との生活も垣間見て家族同様に付き合っていた様子も窺えた。
 その間十湖は欣菜には「俳句や画を書くことも大切だが家業をしっかりやれ」と叱咤したこともあった。瀬在家の女たちが出産すれば祝いの句を詠んでともに喜んだ。
 母親の久め子は、家の収入の足しになればと、もくもくと毎晩織機に向かっていた。
 織っていたのは「更科斜子織」と呼ばれ、明治以降当地の婦人たちの内職として普及したものだった。もともと江戸時代足利辺りで織られるようになったが、長野へ来る旅人を通じて知られるようになり、これに目を付けた更科の里の婦人らにより更科斜子織ができたという。
 十湖一行が帰郷後、欽菜の母親が斜子織の大会で賞を得たと風の便りで知った。
 十湖は、早速欽菜あてに祝いの書を送った。書には賛辞と祝い句が添えられていた。
「衣里川の里なる瀬在久め子か多年故々呂(心)をこめられける斜子織の業の糸立つ其の功績むなしからす足利に於いて施行せられける一府六縣の共進会において五等賞を受け又八王子にて挙行せられける一府九県聨合共進会において三等の賞を得るに実に瀬在家の名誉にして此の業の盛大期して待つへきなり
   新きぬの光りは家の光り可那
            七十二峰十湖  祝之」
 母親の斜子を織る丹精が瀬在家の「家の光」であると絶賛していた。家族同様に過ごしていた十湖にとって母親の受賞はよほど嬉しかったに違いない。Sinkinu_2
 

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2012年7月 8日 (日)

笠井街道の面影また消える

 笠井街道は浜松市の東部に位置し、戦中戦後のガチャマン時代を彷彿とさせる家屋が残っていた。
 近年になってその面影は徐々に遠のき笠井の中心市街地であった町並みは年とともに衰退し主要な建物も消えつつある。
 昨年は、こうじや、美濃や酒店が消えて、今、笠井観音前の町屋二棟が取り壊された。
さらにその東には、かつて笠井市場で賑わった跡地が宅地分譲中だ。笠井の中心地だった笠井上がテンポを速め面影が又一つと消えていく。
(下の写真は既に無くなった町屋)Machiya02_2 Machiiya

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