句碑めぐり
2022年8月13日 (土)
2022年7月 2日 (土)
2020年11月28日 (土)
高野山紀行(4) 第441回
十湖は黄鶴に俳句関係の印刷を廻してやった。
そうすれば俳句から遠避かることもないだろうとの配慮である。
ゆえに俳句の方にも力を入れることになり、翌年二月には春雄、随処らととともに市内の北浜館で早春風雅会を開くに至った。
結果は盛況であった。
その上、黄鶴への心遣いが、弟子を大切にすると評価され、奇人にして人に優しいと、十湖の名声を一段と高くすることになった。
新愛知新聞の編集局長が、十湖のことを連載で掲載したいと訪ねてきたこともあった。
四月二十日には黄鶴が発起人となり、不動寺境内に十湖の句碑を建立した。
果樹園経営していたころに不動寺へ世話をかけてきたことと、十湖への黄鶴からの償いであった。
山の月心も高う眺めけり
既に芭蕉の句碑は弘化二年に地域の俳人たちによって建立されていたが、そのそばに十湖の碑が添う様に建てられた。
除幕式には十湖自身が出席しご満悦で黄鶴の望みどおりの結果となった。
だが店を切り盛りしていた妻が、病気で入院したとたん、瀬戸物店の客が減少し始めた。
仕事がうまくいかなくなると、身辺では疎んじられる。
「俺は何をやってもうまくいかない」
黄鶴は自らを責めた。
(不動寺山門)
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2017年3月 4日 (土)
はままつは出世城なり初松魚
明治から大正時代まで浜松地域を中心に名を馳せた俳人松島十湖の有名な句である。
名句かどうかは、他者に任せるとして句の意味するところはわかりやすい。
季節は初夏。浜松城は青葉に繁り初鰹(初松魚)のおいしい季節となった。
庶民がこうして初鰹をおいしく食べれるのも立派な領主のおかげだという。
ここ浜松城は出世城といわれ、領主は言うまでもなく若き日の徳川家康。
29歳にして岡崎城を離れ、浜松に居城して当時の曳馬城改め浜松城主として君臨した。
以後17年間遠州地域を治めていたが、武田信玄の猛攻に遭い、かろうじて城を守った。
それからは、この時の教訓が生かされ、将軍にまで上り詰めた縁起のいい城となった。世間では「出世城」だという。
一般的にはこのような想いで詠んだ句だという評価である。
しかし、十湖が句で表現したかったのはこれだけだったろうか。
実はこのなかに、自らの生き方をも述懐していたのではないかと思われるのである。
大正十三年四月十三日、当時の市内野口町八幡神社には朝から春雨が降りそそぐ。
句碑建立の午前11時ごろには止んだのだろうか。孫の松島保吉の手により除幕式、終わって十湖の立句で正式俳諧を催す。
句碑は市内中区の八幡宮神社境内に今でも存在する。このとき十湖76歳、亡くなる2年前ことだ。
晩年を意識すれば、誰しも過去を振り返ることがある。
十湖もこの句を作りながら過去が甦ってきたのではないだろうか。
農家の子に生まれながらも、住民の先頭に立ち天竜川の洪水に立ち向かったこと。
村長として村を治め、その手腕を買われて引佐麁玉郡長となり役所改革、農業振興に辣腕を奮ったこと。
その功績は県が高く評価し、報徳者として県会議員になって活躍したこと。
同時に俳聖として全国で知られ、多くの門弟に囲まれた自分の生き様に納得し、これも「浜松に住んでいたからこそ成せることだった」と述懐してはいなかったろうか。
十湖にとって人生そのものが浜松城であり出世城だったともいえる。
句碑建立の日、祝宴の初松魚を食べながら八幡神社から遠望する浜松城は十湖の眼にはそう映ったのかもしれない。
十湖の菩提寺である東区豊西町の源長院の墓苑には墓の隣に「はままつは出世城なり初松魚」の句碑が建っていて彼の功績を讃えている。
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2017年3月 3日 (金)
梅のトンネル
そろそろ梅が満開の時期ではないかと細江町の長楽寺を訪れた。
同寺の裏手にある観音堂から階段が伸びているはずである。
この光景は来るたびに変わってはいない。だが今年は花付きが悪い。
主要な枝が断ち切られているようで、新芽についた蕾だけが咲いている程度。
この階段を上りながら梅のトンネルを潜っていくのであるが、その必要がない。
それでも、かつて見た光景を思い出しながら上ってみた。
眼下に奥浜名湖の湖面が輝き、絶景が広がる。
下って元の位置へ戻ると奥の院の参道入口にあたり、十湖の句碑が迎えてくれる。
苔むしたうえ一部朽ちたせいか読めない部分があるが、調べてみるとこんな句であった。
建立は明治18年4月、十湖が松島吉平の名で引佐麁玉郡長を拝命して活躍していたころである。
目に耳にみちわたりけり寺の秋
長楽寺には小堀遠州作と伝えられる満天星(どうだん)の庭があり、秋の紅葉が美しいことでも知られている。
句はおそらくこの季節に詠んだものか、それとも他の寺なのか、定かではない。
でも今の時期も捨てたものではない。
梅のトンネルの開花状況は寂しいけれど、鵯、めじろの囀りと周囲から漂う梅の香に春を知るのである。
寺方へ下ると駐車場付近に植えられた河津桜が満開で、十湖の句碑が花を詠んだものであったなら一段とその風情を感じるのだが。
十湖の句碑の「寺の秋」は「寺の春」でもよかったのではと思うのである。
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2017年2月19日 (日)
春雨の流れて行くや水の上
いったいこれは何を対象として詠んだ句なのか、俳誌「俳三昧」に掲載された句の一つだが、しばらく悩んでしまった。
大正14年の年にいたって、春雨を強調するような行事はない。十湖76歳のときだ。
これより1年前の彼岸過ぎには、春雨の降りそそぐなか句碑を建立している。
浜松市広沢町の西来院境内にある藤棚下に、自らの句碑を建立するため除幕式に出席している。
この寺は家康の正妻、築山御前の廟所が残ることで知られ、NHKの大河ドラマ「おんな城主井伊直虎」が放映されている中に登場する瀬名姫が後に家康の妻となり築山御前とよばれることになる。春には本堂前に藤が咲き誇る。
さてこのとき建立された十湖の句碑は
咲きながら伸びすすむなり藤の花
同日、十湖は境内にある築山御前の墓にもおとずれた。そのとき詠んだ句が
其のままの手向けの水や春の雨(大13)
春雨の句は、個人的にはどうしてもこの句と重なってしまう。
――春雨の流れていく先は手向けの水ではなかったろうかと
この日以来、十湖には春の句を俳誌「俳三昧」に掲載する機会はなかったので、翌年になった可能性がないでもない。私見であるが…
(築山御前の廟所)
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2013年3月29日 (金)
桜か初鰹か
浜松城にも例年より早く咲いた桜は、今が満開である。
花曇とはよく云ったもので、云い得ている。
咲き始めは白っぽかった花びらが、心なしか色が着き、曇り空を背景に桜色を際立てているようだ。
浜松は出世城だという。
歴代城主の多くが、後に江戸幕府の重役に出世したことからいわれている。
桜に彩られた城を見ると、出世を成し遂げた人の運のよさ、活躍ぶりを彷彿とさせる。
当地の明治の俳人松島十湖はこんな句を読んでいる。
はま松は出世城なり初松魚(浜松は出世城なり初鰹)
現在、この句碑が八幡神社に建立されているようだが、城を見てから少し散策をしてみた。
以外やこの神社には古木の桜があるのかと思っていたら、そんな気配はなく若木が数本ある程度。
句碑を探してみると、大きな樹の下にぽつんと佇んでいた。
桜満開の城と比較してみると、句碑は浜松城の方がよく似合いそうである。
桜見物の後は句碑をサカナに、初鰹に酒なんて粋じゃないですか。
酒はもちろん地酒の「出世城」が好いようで。
初鰹の季題は初夏だから、桜咲く時期は無いなんて野暮なことは云いっこな~し。
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2011年12月29日 (木)
細江町東林寺「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」
奥浜名湖を見下ろす引佐町気賀の細江神社の隣に東林寺がある。山門をくぐると眼前に本堂があり、きれいに整備されていて気持ちがよい境内である。その脇に句碑が建立されていた。句碑の揮毫は遠州の誇る俳人松島十湖の書体とは違うが石の形に似せ句が刻まれていた。
「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」
句碑を読むと本来五七五で並ぶ句が八四五となっている。詠み方によっては意味するところが変わってしまうがこの場合は後者の並びが理解しやすい。
寺のホームページでも次のとおり、紹介されていた。
「後の世の 闇は照るまじ 鵜のかがり」(鵜篝)発句集(明治17年)
、長良川船遊の句だそうです。明治19年に建てられました。(高さ85、幅65センチ)この時代には、都田川でも鵜飼が行われており、十湖先生も良くお立ち寄りになったことから、この石に刻まれた句は、うちのお寺から都田川を臨んだものとも思われます。(先代文雅のひとり言)」
長良川で詠んだ句だと最初紹介されていたが、当時の十湖にとってそんな余裕があったのか疑問だ。発句集によれば句は明治17年に詠まれており、寺への建立は明治19年と記録されている。どこにも長良川で詠んだとは記載されていない 。
明治14年7月28日静岡にて県知事も出席しての十湖の送別会が行われ、30日には妻佐乃と次男藤吉を連れて引佐郡気賀村に転居した。引佐・麁玉郡長として赴任してきたのである。
まさにこの夏、気賀の地に足を踏み入れた松島吉平郡長の眼に映った都田川の鵜飼の景色は、自らの人生と重ねて感慨深い一句となったのだろう。
「流るるは浮世のさまの鵜舟かな」
明治14年、明治17年には当時の俳句会報等にこの句が掲載されている。
引佐・麁玉郡長として静岡から転居し中善地から引っ越してからは行政の長として多忙な毎日を送っており、活躍ぶりはすこぶるめざましい。やっと落ち着いた明治17年8月2日の夏休暇には親しき人を招き、夜は細江に舟を浮かべ観月会を催している。
東林寺の住職ともさまざまな話しをしていたことだろう。役場の上は寺だったのだから
「後の世の闇はてるまじ鵜のかがり」
このころにでも詠んだのかもしれない。
ほかに明治32年には「長良川舟遊び」と題し
「人と鳥おなじ心の鵜飼かな」
とあり、この句こそ長良川の舟遊びの結果できた句ではないだろうか。
鵜飼といえば、今では長良川の鵜飼が観光として有名だが、夏の夜、かがり火を焚いた船上で、鵜を操り、鮎を獲る様子は、ここだけに残された日本の古典的な漁法で伝統と格式があり、見る人を幽玄の世界へ誘い込む。
しかし、当時にあっては、鮎漁での鵜飼は決して珍しいものではなかったろう。全国にその漁の様子が写真でも残っている。この気賀の川でも夜の鵜飼があったものと推測される。
前述の寺の住職の言葉にもあるように、あながち間違いではなかろう。
夏の気賀町内を流れる都田川の夕景は、かがり火の明かりでひときは明るく、十湖にとって心が和んだことだろう。住職との会話も弾み、当時の政治情勢を憂い、ついに口にしてしまった。
浜松の郷土研究家西原勲氏の執筆「西遠の句碑」によれば
「河口付近に鵜飼のかがり火が点滅しだす。(十湖は)それを眺めながら鵜飼のかがり火程度では後の世を照らし出すことはできない。和尚、やはり修行を積んだあなたの力、御仏の教えをもってしなければと呼びかけたものである。」と。
なかなか奥が深い句であるが、現在の世の動きから察するに、かがり火程度であっても闇の先はぼんやりと見えるはず。やがてその闇は多くのかがり火によってさらに明るく後の世を照らすのではないだろうか。引佐にあってその先駆的役割を以後十湖が務めた。
明治19年1月鈴木雲泉らの発起で東林寺内にこの句碑を建立した。同年夏、十湖の郡長としての実績が県に認められ、郡長を辞任する。以後在職しなくても郡長並みの待遇を保証された。事蹟は枚挙にいとまなく、快刀乱麻の敏腕は一頭地を抜いて郡民に崇敬されたという。
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2011年11月29日 (火)
宝林寺と友月
秋模様を撮影しようと思い立って、初めて浜名湖湖北五山のひとつ金指の宝林寺を訪ねた。
初山宝林寺は、旗本金指近藤家の2代目近藤登之助貞用の招きに応じた明国の僧、独湛禅師によって1664年(寛文4年)に近藤家の菩提寺として開創された黄檗宗の寺院だと案内にあった。
階段を上がり山門をくぐると、正面には中国明朝風様式の仏殿が迎えており、 内部には本尊釈迦如来、左右に阿難尊者と迦葉尊者、奥左右の厨子には達磨大師と梁の武帝、堂内東西に二十四天善神が祀られている。右側の最も手前は関羽という名の像が見下ろしていた。
堂内の雰囲気はまるで奈良の寺へでも来ているような錯覚を覚える。順路に従い次は報恩堂へ。この地の領主であった近藤登之助を祀ってあった。寺の由来はこの人物を祀るためというが。この名を見てふときずいたことがあった。
本堂の裏手の白壁を過ぎると方丈があり、ここでは地元画家の展示もされており建物内は古く落ち着いた雰囲気である。
こうした中での作品展示方法もあるのだなあと感心して再び白壁の前を通り かかったとき古びた石碑が二つ並んでおいてあった。
なんだろうと覗き込んでみたが、位置が遠くで、何が刻まれているのか見えなかった。なにやら句碑のようでもある。帰り際寺の方に訪ねてみたが、知らないとの返事であった。近藤登之助にまつわるものなのかそれとも単なる庭園の装飾なのか、興味を覚えた。
この名から連想した人物は近藤友月。元の名は松島藤吉。俳人松島十湖の次男である。かつて近藤家に養子に出されたという。宝林寺には秋の気配を感じさせる風景はなかったが、今、若き日の友月の姿がよみがえってきた。
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