報徳

2022年10月12日 (水)

二宮神社創建の経緯と十湖の関わり

 現在、二宮尊徳翁を祀った報徳二宮神社が全国に2箇所ある。
 そのひとつに小田原市、ふたつめは栃木県日光今市市の今市報徳二宮神社である。
 十湖宗匠の事業実績を辿ってみるとこの二宮神社の創建にも関係していたことを知った。
 今回は一体どのように十湖は関係していたのか、少し歴史を紐解いてみようと思う。
 まず二宮尊徳について、理解を深めたい。
 「二宮尊徳は江戸時代後期の農政家。書物を読みながら薪を背負って歩く二宮金次郎の像で知られる。天明7年(1787)、相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市栢山)に生まれた。酒匂川の氾濫で田畑が流されて家は没落、両親は過労で亡くなり、兄弟は別々に親戚に預けられた。
 尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に預けられ、そこで農作業に従事するかたわら勉学に励んだ。そして荒れ地を開墾し、そこに田植え後捨てられている余った苗を植えて収穫を上げ、貯めたお金で田畑を少しずつ買い戻すと、それを小作に出すなどして収入を増加させ、24歳で実家を再興した。
その後、小田原藩家老・服部家の財政立て直しに成功すると、その能力を見込まれて下野国桜町領(小田原藩主・大久保家の分家である宇津家の領地)の立て直しを依頼され、さらに真岡代官領の経営にも成果を上げる。その手法は報徳仕法と呼ばれ、600ヶ所以上で藩の財政再建や農村の復興などが行われた。
嘉永6年(1853)幕府の命により日光神領での仕法にとりかかる。安政3年(1856)今市(現在の日光市今市)の報徳役所にて没する。」
以上が報徳社関連ページでの引用だが、尊徳を理解するうえでは大変にわかりやすい。
 十湖はこの尊徳の教えを広めてきた。とくに顕著だったのは十湖が郡長時代に引佐の農業を振興するために報徳の教えを地域に広めて数々の事業を展開した。
 明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。そうした中でもいち早く各地の総代、相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと国に対し請願をした。同年10月のことである。運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年11月には許可が出た。
 ところが各地の報徳社員は、この案では地理が不便であってよろしくない。しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。その先鋒が中善地の松島吉平こと松島十湖そのものだった。
 今度は自らが7カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、明治25年3月今市と小田原の2箇所に神社を建立しようと決定した。しかし既に櫻町への創建が許可されているためこの指令を取り消す必要に迫られた。
 明治25年8月15日十湖は報徳社員1万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。時の内務大臣は品川弥二郎辞任間直の接見であった。このとき併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。各地の総代とともに岡田社長の筆頭名で出願し直ちに許可を得たのである。Okada
 明治30年11月14日、懸案だった今市の報徳二宮神社が落成、鎮座式が行われる。鎮座式に臨んで十湖は「大御代の光りぞ今日の宮遷し」と句を認めた。
落成式終了後、十湖は宮司の関根友三郎宅に宿泊し夜を徹して二宮翁を語り合った。十湖は短冊に一句を認め差し出したところ、それを読んだ関根氏はいたく感激し、あらためて句碑の建立を要請した。無上の光栄と感涙した十湖は
 「明安し我も一夜の御墓守」
と大書してして奉納した。これが本殿裏の御墓所前に立つ句碑だというが現在もあるだろうか、さだかではない。
 一方、小田原の報徳二宮神社の由緒をみると「明治27年(1894)4月、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に神社が創建されました。」とある。こうして、どちらも彼等社員の尽力によって現在も二宮神社が存在するのである。
 のちに明治43年、新聞記者鷹野弥三郎は当時「奇人・変人」として世間で呼ばれていた俳人十湖の自伝を編集するため東奔西走していたところ、十湖が二宮尊徳の偉業をたたえるためこの神社創建にかかわったことを知った。
 鷹野によれば明治五年、十湖は福山瀧助指導により遠譲社を有志者と設立し、自らが中善地村の社長となって報徳社の教えを広めた。明治15年引佐麁玉郡長時代には引佐の農業を振興するため三遠農学社を設立、自ら主幹に就任し二宮尊徳の精神を根本にして勤勉貯蓄を図り教えを広めた。さらに報徳社を各地に設立し、いっそう二宮の功績に感動し、尊敬し、十湖としては神として祀りたいと運動をはじめたのは必然であった。そしてその運動は開花し今市、小田原の2箇所に神社が創建される結果となったというのである。
 ただ、社内では十湖と会長岡田良一郎との間にごたごたがあり、十湖側からは岡田がその功績を独り占めにしようと謀っていたのを頑として食い止めたというが、その事実はいかがなものか。
 鷹野は取材の中で「この時代、十湖が俳人として名声が高いことはだれもが知るところであるが、十湖は言行一致の人物であり、いわゆる豪き性格は俳句だけでなく多くのことに認めざるを得ない」と。
以後、報徳の運動は留まるところを知らず遠江100余社、三重愛知両県に20余社の報徳社を設けた。まさにこれこそ十湖の実績であった。

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2014年5月 5日 (月)

春風やけぶりの中を進む汽車

   十湖の菩提寺である豊西町の源長院前には、季節に合った十湖の句を掲示し紹介している。
   今月の選句が表題の句だ。
 大正13年十湖は76歳になった。句は同年4月13日前後に詠まれたものであろう。
 この日の午前中は浜松市野口町の八幡神社で句碑建立の除幕式。
 句碑は、おそらく現在も神社に残る「浜松は出世城なり初松魚」ではなかったか。
 午後9時30分、やっと旅の人となる。浜松発東京行き9時33分の汽車に一人乗りこむ。

   春の夜や汽車に眠らぬ人もなし
   のり心ねむり心や春の雪Jikokuhyot13

 きっと忙しい一日であったであろう。乗り込んだ夜行列車の旅は一気に疲れが出てきたはず。
 句を詠む車中風景は眠りの光景?を目の当たりにする。
汽車は小田原へと目指した。
 「全国報徳社大合同報告祭」に出席するためであった。
   
  
  

  春風やけぶりの中を進む汽車

 その帰り無事使命を果たし、気持ちが軽くなったのか汽車の旅を楽しんでいる。
 例年、春は富士山が見えにくい。にもかかわらず

  雲の上霞の上や不二の山

 富士山も十湖もご機嫌がよかったようだった。 Odawarajyo

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2013年12月21日 (土)

よみがえれ報徳の絆

 去る平成25年12月19日地元紙朝刊に“俳人十湖一冊に”と題して句塚保存会が記念誌を発行したと報じていた。
浜松で明治から大正時代に活躍した松島十湖と当時同郷であった富田久三郎(後に鳴門市在住)との交遊を紹介するとともに、
両人の足跡を盛り込んでいるという。
 新聞の見出しから推測すると両者に共通するところは報徳の精神だったのではないかと思う。
 当ブログ内ではすでに掲載しているので参考にしていただければ幸いである。
富田久三郎と十湖
 冊紙の購入希望者は FAX053-461-2221 大谷さんまでどうぞ(実費千円で配布)
Hon

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2013年8月23日 (金)

架空対談:十湖の「農」

聞き手
 前回は十湖宗匠の生き方を聞くことができた。
今回は農業について自己のご意見を聞く機会となった。

 十湖
 農は、是を、趣味的に観るものにありてはもっとも愉快なる職業なり。
それは大自然の懐に抱かれつつ最も自由にかつ最も真実に生活し得られればなり。
農は造化の直参にして、常に神とともに在り」とは農に従う者にのみ与えられたる得がたき幸のひとつなり。

聞き手
 なるほど専業農家にとっては常に神とともに在り、此処に幸せがあるということですね。

十湖
 そうだ。農は是を事業として観るときは最も偉大なる職業なり。
農は一切物資の給元にして農なくんば一切無し。真に農は天下の大本なり。
是農に従う者の最大の強みにして誇りなり。

聞き手
 農業を営むことはまさに偉大な職業であって、世の中に食料として供給する役割を担っていることこそ農業者の誇りになるわけですね

十湖
 更に云えば、農は一切のものを包容し、一切のものを生育する点において、人類の母たるの威あり。是農の最も大いなる徳なり。
田園の幸、土の徳、農の誇りは挙げて数得るべからず。
筆紙に尽くすべからず。
我この天職を尽くさば裡自ら道備わり、楽亦其の裡に溢る。
嗚呼農なるかな、農なるかな。

聞き手
・・・(感心して聞き入っている)
Daihai



十湖
地に人間の住まん限り農は生命活動の源泉にして最も自然に、かつ最も尊貴なる職業なり。
自由に、かつ真実に生きうるは我の幸福なり。
健全なる肉体と精神とを得て、我の義務を敢行するは忠となり。
孝となり、人類を養い国を益するは是社会に奉仕するゆえんなり。
農は我の本領にして、我の趣味なり

聞き手
今日は随分と熱く農業者の心得を説いていただいた。
宗匠は公職を離れて以来明治三十年代以降さまざまな冠が着けられた。
郷土の偉人という前に奇人、変人、変哲、貧中王、などと呼ばれていた。
だがこうしてご本人の口から生き方を窺うと、これら冠は少し意味が違っていたようだ。
むしろ愛称であり少しばかり十湖にやっかみでも云いたいという輩が着けたもの。
この頃既に宗匠として全国に名が知られ、門人が1万人と新聞でも豪語していた。
それは満更法螺ではなくて三遠農学社など報徳関連組織を全国につくり、俳句の指導をしていたことを考えるとありえた事だったと思う。
以上の資料は大正7年ごろ大日本報徳学報に寄稿していたものを、対談としてここに掲載した。

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2013年8月19日 (月)

鈴木藤三郎顕彰記念文化講演会盛況にて終了

 8月18日(日)森町文化会館にて鈴木藤三郎の顕彰百年を記念して開催された講演会は会場一杯の参加者で盛況であった。
予想以上の参加に隣席の方に理由を尋ねたところ、随分と宣伝していたし文化協会の動員もあったけどと前置きし、「皆さん藤三郎には関心が有りますから、それでも思った以上の人の入りだわ」と返ってきた。
 なるほど、町の偉人として町民の中に定着しつつあるのだとこちらは感心させられた。
出し物は基調講演とパネルディスカションいずれもそつなく進行し、始めて聞く藤三郎という人物を知ることができたことは有意義な時間であった。
 会場ロビーでの遺品の展示も貴重なものを拝見でき参加した価値が一段と上がったような気がした。主催者の皆様お疲れ様でした。未来の藤三郎の出現に期待したい。Mori




 

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2013年8月 9日 (金)

十湖の盟友鈴木藤三郎講演会開催迫る

 先日知り合いから森町の偉人鈴木藤三郎の講演会があると案内された。
日時は平成25年8月18日(日)午後1時30分から森町文化会館大ホールで行われる。
今年で藤三郎は没後百年を迎えるため地元森町では今回のイベントを企画したという。
さて、わが郷土の俳人十湖宗匠にとっては彼をどう思っていたのだろうか。
 両人による逸話も残っているが、衆議院議員までなった鈴木藤三郎を一目置いていたのではないかと思う。
 詳しい資料は持ち合わせていないので推測でしかないが、少なくとも財界人として報徳社への貢献度は、いつも金が無い十湖にとってはうらやましい限りではなかったか。
十湖が65歳になった大正2年9月4日のとき、盟友大日本製糖社長鈴木藤三郎は癌のため死去した。58歳という早い旅立ちであった。
 郷里森町で挙行された告別式では十湖も参列し、句を詠んで永眠を悼んだ。

  君一人逝いて天下の秋の暮

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2013年8月 2日 (金)

富田久三郎と十湖その2

 富田久三郎をもっと知りたいと欲しWEBでも検索してみたところ案外わけなく情報が載せられていた。曾孫にあたる富田実氏が稿を起こしていた。
「富田久三郎翁とドイツ兵俘虜― 板東収容所時代の純ドイツ式牧舎について」と題し久三郎氏が富田製薬を興しドイツ兵俘虜の設計により板東収容所の近くに建設された純ドイツ式牧舎(収容所酪農所)までの事が記されていた。
板東とは鳴門にある地名であり収容所の事は富田久三郎の鳴門時代である。
知りたいのは浜松時代のことであるのでこの稿の中から十湖との関係が有りそうな部分を引用させていただく。
遠州気質“ やらまいか”というタイトルで紹介された中には
「富田久三郎は1852 年に遠州長上郡市野村(現、浜松市東区市野町)で生まれた。生家は姫街道の要衝で代々錺屋(かざりや)を営み、祖父保五郎は火術家(火薬に精通した技術者に対する江戸時代の呼称)として近隣で有名であった。
 久三郎はこの祖父の薫陶を受けて青年期より舎密(化学)を学び、25 歳の時に当時高価な薬品であった炭酸マグネシュウムを苦汁から製造する方法を確立し、地元市野や浜名湖周辺で製薬業を拡大していった。
久三郎は、青年期から壮年期にかけて、郷里遠州の二人の偉人、金原明善と松島吉平、の思想や行動に大いに感化されている。後年、久三郎がドイツ兵俘虜から技術を学び“ 工農一体化” を推進しようとしたのは、この二人の先輩の影響によるところが大きい。
金原明善は大庄屋に生まれ明治維新時に天竜川治水に貢献した大事業家であり、北海道で牧場経営も試みている。松島吉平は二宮尊徳の報徳を研鑽し、西遠農学社(後、三遠農学社)を設立するなど政治や社会事業におおきな功績を残し、かつ、俳諧にも精通し全国的に有名な俳人(俳号・十湖)でもあった。
やがて、久三郎はさらなる事業拡大のために苦汁の大量供給地に進出すべきと考えるようになり、瀬戸内十州塩田の中から適地として撫養塩田を選び、遠州から阿波への移転を決意した。1892 年久三郎40 歳の時に、風光明媚な小鳴門海峡沿いの板野郡瀬戸村明神に富田製薬工場を開設した。」
 

 長い引用で恐縮だが、郷里の地元民にとっては大変分かりやすく曾孫富田実氏の稿となれば信用度は高く、貴重な記述としてこの稿を補足できるように務めていきたい。(完)

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2013年7月26日 (金)

富田久三郎と十湖

 今年の二月地元中日新聞に下記のような記事が掲載されていた。

松島十湖たたえ記念碑建立 東区で地元保存会員ら除幕式
「明治から大正期に活躍した俳人松島十湖(じっこ)(一八四九~一九二六)の記念碑が、故郷の浜松市東区豊西町にある十湖百句塚に建立された。地元の十湖句碑保存会と、十湖を通して親交を深める鳴門幻住庵保存会(徳島県鳴門市)の共同事業。二十二日に除幕式があり、両保存会員や行政担当者ら二十五人が出席し、俳句文化を後世に伝えていこうと誓った。

 鳴門幻住庵保存会は、阿波の俳人幻住庵潮汲宗匠の伝承に力を入れる。十湖と同郷で富田製薬(鳴門市)を創業した富田久三郎氏が、十湖と幻住庵二世を引き合わせた経緯があり、十湖句碑保存会と交流を続ける。」以下略

 かつて俳人松島十湖がそうであったように新聞の記事は貴重な情報源であると。
当事者間でなければ知り得ない情報がここでは語られ読者に知らされていた。
 この記事は私にとってもまったく知りえない内容であった。
鳴門へ出て出世した浜松市東区市野町の富田久三郎氏との交友関係は理解できるが、さらに俳人同士の交友までは未知であった。とはいえ全国を俳諧行脚した十湖には何処の地でもありうることであり、うれしい限りである。
 十湖と富田との交友関係は前回このブログで紹介したが、それは十湖発句集の中の年表で知りえた範囲内の事でちょうどこの新聞記事とも動機は合致したのである。
 当ブログの趣旨からするとスポットを当てたい人物はやはり久三郎でありその生き様と十湖との関係をもっと深く知りたいと云うのが本音だ。
   過去歴を遡ってみたところ、最大の協力者として久三郎の名が出てきたのは十湖晩年の顕彰銅像の建設のときであった。今後はこの部分から紐解いていこうと思う。
(つづく 毎週金曜日)

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2013年2月22日 (金)

報徳仕込み その3

 因みにこのとき十湖らが起草した「西遠農学社主義」を下記に記す。
西遠農学社主義
 人のこの世に生息するは各その分に応じて自由を求め幸福を祈り安楽世界に住居する事を望むものなり。その望みを全うするの道を策め身を修め業を務めて子孫の繁栄ならん事を希望するは人の天性進んで止めざるの通情なり。その望みを得ざれば広き天地の間に居ながら自ら束縛せられたるがごとく人類の快楽を全うするを得ず、これ人の憂のもっとも甚だしきものなり。その憂を去りその希望を達するは人智を開き家を富し国を富すにあらざればこれを全うするを得ず。その富を求むるに天地に向かいて求めんかそれ人に向かいて決して求めず必ずや造化の無尽蔵に向いてこれを求むこれ本社の大主義なり、人に向いて求むるも全国分業の職を尽くして利を得るは天地に向かいて求めるものとす。ここに我が西遠農学社を開設するもの農事の精理を探り互いに智識を交換し己を利し国を益し専ら経世の事務を諮じゅんするにあり。天下の事業大別すれば二種となる、即心を労する者と身を労するものなり。方今心を労する社会には愛国の議論盛んなるも身を労する社会の振りわざるがゆえに富国の術全うからず。これを全うせんがためにこの社を開く者なり。かつ富国とは全国の事にして我事にあらずと誤想するなかれ、国人相互いの便利を計り共同の福利を得るを富国というなり。人々の貧富を問わずこの社に進んで共同の福利を得べし。しかれども自然富める者は自ら足れりとして怠るなきを保せず。また富者は財産の維持保護を国に受けること貧者よりも厚し。ゆえに国に尽くすの義務もまたしたがって重し、深く思わざるべからず、凡そ富者財産の相続をただ単に金力にのみ依頼して子孫に譲ははなはだ危うし。必ず道理を添えて譲るべし。本社は道理を談話研究するところなり。ひそかにこれみるに国力と万国対立するの力足らざるは全国の不幸なりこれを希求の秋といわざるをえず、よって人民またこれを償うの義務を負担せざるを得ず、退いて因循せんかむしろ進んでこれを償うの術を謀らんか、進んで国に尽くすべきは当然の通義なり、富者進んで貧者明治十八年四月、数日の霜雨に続く強風のために天竜川が危険に瀕し沿岸の村人は必死になって堤防を守り大事に至らなかった。だが雨の余勢は強く、数日後とうとう河水が氾濫した。
 村民たちは防災で既に疲弊しており、氾濫後は集中力もなくもはや成す術がなかった。古老の一人が
「もう万事休すじゃ。吉平郡長に知らせ、助けてもらわまいか。」
と村民から若い男を選び、馬車をとばして気賀村在任の十湖(松島吉平郡長)のもとに急を告げた。
「吉平郡長様天竜川の氾濫で村は壊滅的です。どうか一緒に来てきてもらえませんか。」
「わしは郡長の公職にあるゆえ軽思の行動はできぬ。」
と十湖はいったんは思いとどまったが、危難の甚大なるを知って傍観しがたく、直ちに郡長辞職書を作成し机の引き出しに入れ置いた。
 村民の用意した馬車に乗り込み帰村後、使いを遠近に馳せ、有志、人夫合わせて三百人を集め、自ら叱咤督励、五日間で水防を完成させ、西河岸五十余村の貴重なる田畑を救い多数の人心を安堵させることができた。
 道理からいえば公職にある身が独断で他郡に出張するなど非常識ではあるが、十湖の報徳精神よりすれば自らの責務の軽重を識別していたというほかなかった。
 これは十湖の一例にすぎないが、独断で河水を防いだときは人夫費四十円を自費であてがい、当時のこの金高は郡長の一ヶ月俸給にも値していた。
 総じて十湖の仕方は郡長時代の事業においても軽きを抑え、重を進めた。冗費奢侈を極度に抑え、公的な施設改良には出費を惜しまなかったのである。
 一方、十湖は若くして俳諧を学んで以来、公務の中でもその道の研鑽を忘れることはなかった。郡長就任地の気賀村では俳句の結社西遠吟社を興し、月一回の例会を開き集まるものは毎回数十人であった。句作のうちにも報徳精神が強く流れていたようだった。

と和しこの社を盛大ならしめよ、我日本全国の地位は四方海にして運送の便といい土地の豊饒といい富みをもって万国に誇るに至るも困難のことにあらざるべし、全国営業数多の内最大数なるは農人にして全国貧富の権を預かるもののごとし、ゆえに人々報国の義心を奮発して各々国家を富し愉快安楽に終身を修め子孫の繁栄を計る事を希望す、論ずれば妄に奮発躁急国のために我労苦をを増すものなりと誤解することなかれ、農会の利益たるは村中利益のために道を作り棒にも荷いしものを車に換えれば凡そ四人の力を増し身体の労大に減ずれば楽しんで倦まず、その工業の入費は千円なるも千人にて出金すれば一円金を持って千円の道路を買うがごとし、全国を持って論ずるもまた同じ道理ならずや、ここに農事の大目的を定める談話にあたり甲乙二論に別れ甲は理学者にて農事は天地の開かるところにしして人は傳守なり、天地の性質を側算せざれば傳守たるもの職を尽くすことを如何せんと言い、乙は腕力者にて農事は人のなすところ天地は古今替わらぬ天地なりというは目的は大に懸隔せり、天下の興論は本末始終軽重是非等を有形無形の間に正して平均順序を得るため改め進むが如きのみなるを保てず、世間に目的を誤り不幸に陥る人少なからず人智の優劣は限りなきものなり、然るに千人会して智識を交換すれば千人の智識一人の所有となる、この手段は労苦にあらずして安楽の種なり、農会は例えば全国開闢以来天地の間に捨てある物を拾うの会あり、その捨てたる物目をもって見るべからず道理をもって見るものなり、ゆえに衆人会して得業及び智識を交換し道理のあるところを探り策めてこれによって見るときは初めて目前に宝の山はあるをみるなり、これ天下の人の争って希望する安楽世界の資宝なり、いただくは有志の諸氏来会入社してその資宝を取り我家の所有となし幸福の本源を固ふし報国の義心を振起し国の安寧を計り、富みをもって万国に誇り我家を安全にし子孫の永続を計らん事をこのこと難しきにあらず、我労力社会よ(労力社会とは貧富を不論国産を繁殖ならしむる身分に居る人を言う)労苦を去って安楽に就かんことを思欲し進んで智識を交換し極楽世界の市場繁盛ならんを謹んで希望する。
 以下規則の第19条までをもって十湖の報徳に関する主張を窺い知ることができる。
 

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2013年2月15日 (金)

報徳仕込み その2

 十湖は嘉永二年の生まれで、六歳で隣村羽鳥村の源長院において読書、習字を学び、十二歳に家へ戻り他の仏門によって教典漢籍を学んだ。
 十六歳にして、俳諧の小築庵春湖の門に入り詩文国学を修め日夜勉学に励んだ。俳諧は父母がいずれもその道の先駆者で号で呼ばれており十湖にもその素質が芽生えていた。
 どれをとっても理解力があり、しかも行動的で以後災害救済を通じて報徳法に心酔し民の心をひとつにし、農政家として民心を一身に集めていくことになる。
 明治五年二十四歳のとき、中善地の人々ともに三才報徳社を福山滝助の教えを守り実践し、「遠譲社中善地支社」として設立した。主旨は
一 天地の化育に人の賛す是れ三才なり。天地の間に生じたる財宝を私するは慎むこと、されば 貧者を救ふべし。是の差出金を元怨金と称ふ。
二 三才報徳の元怨金拝借を元怨金以って家業精出し、家業立ち直りしは元怨金差し出し、即ち 三才の恩沢に報するに誠心なること。
三 親親の者何ほど元怨金を差し出しこれあり候とも、子孫の者親の志に背き、心掛よろしから ざるに於いては、相助不申間敷候。改心の時は格別のこと。
四 富者の貧者を恵むの道至誠なりとも、その者に益なく助からざる時は捨てるに同じとも先生(尊徳)に相伺い候、拠って衆評の上能々善人を選みて助くるが肝要のこと。右の条々永久堅度相守可申候
 この三才報徳社を組織した人々は、根本信義を良く守り成果を上げて、以来組織を二十五年間継続した。
その初めの頃は十湖がそれぞれの社員の家へ行っては激励した。
「元怨金を払うほど収穫がないなら、毎晩縄をなったらどうかな。」
「それでよければ簡単なことだ、毎晩でもやる。」
と社員は同意した。十湖は自ら筆頭にたって、毎夜縄集めに各戸を廻った。集めては安価で売り、社員中の救貧費に当てていった。
こうした十湖の仕方は各地に知れわたり、営繕司御用係、中善地百姓代等を勤る傍ら、かねての地域住民の念願であった中善地と匂坂村とをつなぐ渡船の便を開いたりした。
 明治六年戸長制度が実施されると、十湖は浜松県より中善地戸長を拝命した。
 地域における諸問題を解決しながら、制度の改革にもつとめた。その実績を買われ大迫県令の奨めで県官に奉職し、県会議員等の公職を歴任、三十三才にして引佐あら玉郡長に就任し、さまざまな事業を遂行していった。中でも天竜川の治水にあっては金原明善の事業にも協力し、自らは念願の豊田橋の架橋を図ったことは後世に知られる事実である。
 郡長として赴任して以来、公務の傍らさらに報徳法を広めようと有志らで西遠農学社を創立した。明治十五年八月のことである。
この時の主旨は「農会の利益たるは例えば棒にて担ぎしものを車に換えれば凡そ人の力を増し、資金は千円なるも千人にて出金すれば一円にて千円の値を得るが如し。この手段は労苦にあらずして安楽の種なり。」と。
 郡長としての公職にあるうちは自らが主唱者になり行動するのは憚れた。
 自らと異体同心とも言うべき腹心の友である松島授三郎と野末九八郎らを報徳法の提唱者として、十湖自身は郡長としてその後押し役に徹した。
 後に三遠農学社と改称し、引佐のみならず三河方面や駿河方面にも広がり、組織されたものは数百社に、その社員も二万人を超えた。時代が組織を必要としていたのだった。先に創立した報徳遠譲社とともに日増しに実績を上げていった。
 その後滝助系の報徳法による分社は遠州だけで二百余社、三遠農学社一系分社、三重、愛知の両県に七十余社を数えるにいたった。こうして相州柏山の尊徳出身地より発した芽は、岡田系の遠江報徳社派の隆盛をも合わせて遠州においてもっとも花咲き実ったというべきであった。

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