0序(開設者あいさつ)
「俳人十湖讃歌」のブログを掲載する上での開設者のご挨拶
2021年4月 8日 (木)
2014年1月 2日 (木)
序にかえて
松島十湖は、江戸時代の末期嘉永2年に浜松の東部に位置する今の豊西町に生まれた。
幼名は松島吉平といい、明治という動乱の最中天竜川の右岸に住まいし繰り返す氾濫にもめげず、学んだ報徳仕法をもって住民等の救済にあたった。
後に行動が評価され引佐・麁玉郡長として行政の実践者として地域に貢献した。
やがて俳句の道に進み、死ぬまで宗匠として活躍し「俳人松島十湖」として名を遺した。
人は 十湖を評して二つの面があったという。一つは句作による芭蕉に傾倒する精神的なもの。もう一つは二宮尊徳を崇拝して経済・道徳によって指導する実践的なものである。
同時にその行動が奇異のため人々の目を引き奇人変人という冠がつけられた。
悪く云えばそのものずばりそのとおりである。よく解釈すれば彼が社会で名を馳せるための演出ともとれる。
因みに私はそのいずれでもない。
十湖の足跡をたどったとき、報徳仕法をもって農業改良を行う傍ら俳句というコミュニケーション手段をもって人身を集め、深い人間関係を構築してきた十湖像がそこに見えてくる。
十湖の資質は前述した二つの面によって彼が公職時代に実践した表彰制度や農業組織の結成をつうじ、俳人としての後半生においても忌憚なく発揮されている。
晩年、多くの支援者、寄付者によって十湖像が建立された。だが数ヵ月後にはあの世へ逝りまさに潔い大往生であった。78歳の生涯であった。
再び時代が変わり昭和の戦争中、十湖に災難が降りかかる。自らの命と引き換えに建ったごとき十湖像が戦争にかりだされていくのである。無念というより死してまで報徳精神を貫いた一生だったと思わせる。
当ブログは、彼の俳句人生にまつわるエピソードと代表的な俳句を紹介しながら十湖の後半生を焙り出し、俳人十湖の人となりを現代に甦らせることを目的としている。あわせて彼の遺墨も紹介し自由奔放な彼の生き様を書を通じて感動していただければ開設者冥利に尽き本望である。
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2011年4月15日 (金)
「俳人十湖讃歌」のはじめに
松島十湖は、江戸時代の末期嘉永2年に浜松の東部に位置する今の豊西町に生まれた。
幼名は松島吉平といい、郷土のために貢献し、やがて俳句の道に進み、死ぬまで宗匠として活躍し名を遺した。
彼の偉人伝は郷土の書誌に任せるとして、ここでは彼の俳句人生にまつわるエピソードと代表的な俳句を紹介し、少しでも十湖の人となりを現代に甦らせることができたら本望である。
中でも作者が気に入っているのは彼の遺墨である。自由奔放に生きた彼の生き様を見事に描いていると思うのであわせて紹介していきたい。
なお、当ブログの小説部分は、史実を元にしたフィクションであることを御承知おき願いたい。
それではごゆっくりと当ブログをお楽しみいただければ幸いです。
ブログ「俳人十湖讃歌」開設者
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