俳人十湖讃歌 第69回 曲松のわかれ(12)
「十湖さまあ、乗って下せえ」
背格好のがっしりした人力車の車夫が叫びながら後を追って来たのだ。
「松五郎ではないか。こんなところまでよく来たな」
吉平は何事かと振返った。
「この日が来るのを六年待っていました。さあ乗っておくんなせえ」
松五郎は吉平に声をかけられたことの喜びを隠せないらしく、ニヤニヤしながら人力車を下げ急く様に言う。
吉平がしぶしぶ乗ると人力車は踵を返して見送り人の方を向いた。
まだ立ち去りがたい多くの見送り人の顔があった。吉平は再び礼を云い手を振った。
これで本当に地元引佐との別れである。
人力車は生まれ故郷の中善地を目指して矢の如く走り始めた。背後に見送り人の拍手や歓声が徐々に遠ざかっていくのがわかった。
「松五郎そんなに急がなくても良いぞ。今日はどこへも行かん。家へ帰るだけだからのう」
「十湖様、家じゃ奥様と坊ちゃまが首を長くして待ってますぜ。それにたくさんのお弟子さんが大蕪庵で十湖宗匠帰庵の句を披露しようと今か今かとお待ちかねでっせ」
松五郎は振り切る風に負けないよう怒鳴り声で云った。吉平は少しの間をおいて
「そうだ。俳句があったな。明日からは月並の棟梁で十湖宗匠だ」
思い出したように大きな声で返した。
夏の太陽は既に西に傾きはじめ、吉平は車上で両手を上げながら大きな背伸びをした。
その夜吉平は郡長として赴任した頃の夢を見た。
夢に入る秋や引佐江引佐山
(完)
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